2006-11-12 内藤礼「返礼」、佐久島
弁天サロン庭に張られた二本の紐に小さな木製の洗濯鋏でとめられた、
うす紫色の細長い半透明な薄い布がニ本、風にゆられている、
風が見えれば、なにもつくらなくてもいいかもしれない、
貝紫染めで殺した貝が色として生きはじめることを精霊と、
昔の人は呼んでいたのではないか、という内藤さんのうつくしく感動的な話しを聞きながら
眺めていたが、
本当に精霊の紫のように生きた色として見え始めた
そこには言霊の力もたしかに働いていたような気がする
動きはひじょうにうつくしく、不思議な精霊のようだった
風は止まず、絶えず動きつづける半透明のうす紫色の布の動きをずっと眺めていた
貝紫染めは、貝を割って、その毒(紫の補色の黄色をしている)をとりだして、海水で洗い上げて紫色に染める
庭に出て、近づいて見る、二本のうち、奥のほうにある半透明の紫色は、言霊の力には関係なく、本当にうつくしい、生きているような色だった、しかしその布の素材の波打ちかたに、違和感を覚える
野外作品鑑賞「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」
内藤さんと中沢さんとともに島の道を歩く、
防波堤のある海辺の道に出てしばらくいくと浜辺におりる、
波打ち際の岩場の上に白い樋がすこしだけ曲がりながら、海へ向かって立っている、
この時、中沢新一さんと話していたのと、人が多かったので、あまり作品と向き合えなかった、
一人ずつ樋の水に息を吹き掛けるのだが、
どうもたくさんの人が見ている中では、やる気にならない、
これは、だれもいない海辺で、一人でやって来て、吹き掛けるべきものだ、と
感じた、
だから皆が帰り始めてから、最後に一人残って、作品と向き合おうとするが、
係りのおばさんに早く来てください、帰りの舟に間に合わなくなる人がいるので、
帰るまでが、作品鑑賞なので、もしここであなたが怪我をしたら責任とれないから、と
言うので、
しぶしぶ、また一人で来ればいいか、と息を吹き掛けず帰る、
弁天サロン内、二階の屋根裏のような展示室、階段を登って部屋に入るとまず部屋の真ん中くらいに梁があってその裏側に背の高い総ガラスのケースが置かれていて、
中に球状の白糸の束、半透明の薄い布でできた小さな枕が見える、
その背のような場所の置かれかたがおもしろい、
夕暮れで、蛍光灯がついていて、たぶん図版で見たことがある死者のための枕だと思われるものが、
暗闇から浮かび上がるように半透明のうつくしい光を放っていた
低い梁をくぐって表側から見ると、発掘品の土器の欠片や化石とともに糸を結ばれた土の器(舟)、球状の糸の束、貝紫染の紫の点が幾つもついた布が重ねられたもの、半透明の小さな枕が絶妙の位置、そこにあることの位置の確かさを秘めて置かれている
その後ろの壁側には事務用の灰色の棚の展示ケースがあって
発掘品の土器の置かれている中、白い布を敷きつめた上に糸を結んだ土の舟がたくさん置いてある仕切りが二箇所ある、そちらの土の舟は沈んでいてあまり見えてこない、
その壁の裏側にも展示スペースがあるが、電気がついておらず、常設展示品のみだと思われる、
もうひと部屋の机と椅子が置かれているほうにも、なにも作品は無いようだ、
次の日の朝、弁天島、八劔神社、寺などを見てまわる、
松岡徹の作品は古墳ぽいのや、韓国の塚っぽいのがあるが、
作品のキャラクターの形体が好きになれない、
作家の汚いもの、エゴですらないものか、
弁天サロン、
内藤さん達が、貝紫染めをするのに、貝殻を割って貝の黒い部分をカミソリで裂いて黄色い毒の部分を集める作業を手伝わしてもらう、
もう一度、自然光で弁天サロン二階の作品を見ると、
今度は、半透明の枕は落ち着いていて、
壁側の糸を結んだ土の舟達がたちあがって見えてくる、
むしろ発掘された土器よりもうつくしいような存在感を放っている土の器の自然光の光と陰、
こんなにも光りによって違って見えるとは、
この時、
自然光は自然につくられたものをうつくしく見せ、
人工照明というのは、人工物(というより機械工物)をうつくしく見せるのではないかという、
見方がたちあがる、これはちょっとした発見だった
もう一度、一人で野外作品「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」を見に行く、
一人、海辺の波打ち際に立つ白い樋を眺め、
打ち寄せる波の音と波の動きを視界にいれながら、海に向かって、
白い樋に入った水に息を吹きかけると、
その水の震えは、精霊がひかえめにダンスを踊るようにうつくしい振動をおこした
波の激しい力と樋の上の小さな水の震え、そのイメージはあまりにすばらしい
ただ、この精霊のようにうつくしい水をいれる器が、
白い焼き付け塗装のステンレス製であることが、
京都の美術館内での展示の樋の作品の時は気にならなかったが、
この海のことを知らない形体と素材は、
海のテリトリーにおいて、精霊の器としてがっかり感は否めなかった
美術館という家のテリトリーにおいて、ステンレス、鉄は主張しない普通のものとして存在するが、
海という自然と自然光のテリトリーにおいて、それは逆に主張が強すぎるのではないか、
これをたとえば、木か石か、それとも、この場所を知っている、海を知っている内藤さん自身がステンレスでも手をつかって形体をつくったならば、非常に深い感動を憶えただろうと思う、
内藤礼さんは、そういう意味では都市の巫女なのだ、
それは弁天サロンの庭に吊り下げられたリボンにも言える、貝紫染めの精霊の紫はあまりにうつくしいのだが、その寄り代としての、市販のリボンはやはり形体として、機械製品の単調さを伝えてしまう、そしてそれが自然光のなかではあらわになってしまう、
それは都市においては自然なことであっても、佐久島という場においては、不自然なものとして、
佐久島にあるべきものとして見えてことない、
内藤さんのいう、普通のなんでもないものが、神聖なものに変わる瞬間が見たいというのも、わかるけど、やはり内藤さんが手で織った布が貝紫染めで染められたものが、究極的にはうつくしいだろうということを想うと、それを見たいと想ってしまうのである
特に野外という自然のテリトリーにおいては、
そのことを内藤さんに感想として告げると、
機械工物には生命の振動のようなものが宿らないのではないか、という僕の意見に、
ほんとにそうですか、という問をお返しに投げかけられた、
これは僕にとってもひじょうに問題であるところである、
平田五郎さんの「大葉邸」の鍵を借り、見に行く、
漆喰でできた白い部屋、平田五郎さんのゼミの時、佐久島のパンフレットを見せてもらって、
行きたいと思っていたところで、平田五郎さんは好きな作家だ
石の庭に入ったスリットの水路、
庭側から白い部屋がアクリルボード越しに見える、
鍵を開けて屋内にはいると中は暗く、
奥にいくと、窓からの柔らかな色の光が見える
さらに奥へ行くと、白い漆喰の部屋がアクリルボード越しに見える、
竈の部分にもガラスの作品が置いてあるようだが、暗くて見えない、
電気が切れているようだ、
帰ってから、係りの人に聞くが、切れてるみたいですね、と迅速な対応がまるでない、
あきらかに、管理者に問題があると思われる、
直島の内藤さんの「きんざ」が島の人に護られていっているのと対照的な、
「大葉邸」であった、出来た当事は美しかっただろうが、
うちすてられた感があった、やはりアクリルボード越しではつまらないし、
作品が暗くて見えないというのもひどい状態だ
島の神社や寺を巡る、
山の神塚古墳、向かいの森は沖縄の森に近い神聖な静けさを保っていた、
柵がついて中にははいれない、
島を縦に横断するような道は、地図には書いてあるが、草が生い茂っている、
しかし古墳や神社を探して、掻き分け進む、
人があまり来ない森の小道には、静けさと揺らめく木漏れ日のうつくしい域がある、
草の実をいっぱい張りつけながら、島を歩く、
神社を探して、みかんの果樹園にいたおじいさんに道を尋ねる、
高い石垣に囲われた神社を見て、戻ってくると、おじいさんがみかんでも食べてけ、と
3つばかりうまそうなの選んで、くれる、
無農薬だから形は悪いけど、と
水を忘れて、ちょうど喉が渇いていたので、
すっごい甘くてうまかった、ありがとうございますと言って、
また来てな、とおじいさん、こういうのはすごくうれしい
他のアート作品はほとんどつまらなかった、カモメの看板がいっぱい立ってるのとか、
浜辺の昼寝用のボックスとか
しかし、内藤さんの弁天サロンの庭の作品は、
朝、係りの人が紐に吊り、夜にはしまう、
まるで洗濯する人のように、
おそらく、直島における体験
島の人に作品をゆだね、
護っていってもらうという体験から生まれた
感覚からめばえていっているものだろうけど、
その人々の生活にとけいって、
うごいていく動作にまで
作品というものが入っていっているというのは
すごいことだとあらためて思う
うす紫色の細長い半透明な薄い布がニ本、風にゆられている、
風が見えれば、なにもつくらなくてもいいかもしれない、
貝紫染めで殺した貝が色として生きはじめることを精霊と、
昔の人は呼んでいたのではないか、という内藤さんのうつくしく感動的な話しを聞きながら
眺めていたが、
本当に精霊の紫のように生きた色として見え始めた
そこには言霊の力もたしかに働いていたような気がする
動きはひじょうにうつくしく、不思議な精霊のようだった
風は止まず、絶えず動きつづける半透明のうす紫色の布の動きをずっと眺めていた
貝紫染めは、貝を割って、その毒(紫の補色の黄色をしている)をとりだして、海水で洗い上げて紫色に染める
庭に出て、近づいて見る、二本のうち、奥のほうにある半透明の紫色は、言霊の力には関係なく、本当にうつくしい、生きているような色だった、しかしその布の素材の波打ちかたに、違和感を覚える
野外作品鑑賞「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」
内藤さんと中沢さんとともに島の道を歩く、
防波堤のある海辺の道に出てしばらくいくと浜辺におりる、
波打ち際の岩場の上に白い樋がすこしだけ曲がりながら、海へ向かって立っている、
この時、中沢新一さんと話していたのと、人が多かったので、あまり作品と向き合えなかった、
一人ずつ樋の水に息を吹き掛けるのだが、
どうもたくさんの人が見ている中では、やる気にならない、
これは、だれもいない海辺で、一人でやって来て、吹き掛けるべきものだ、と
感じた、
だから皆が帰り始めてから、最後に一人残って、作品と向き合おうとするが、
係りのおばさんに早く来てください、帰りの舟に間に合わなくなる人がいるので、
帰るまでが、作品鑑賞なので、もしここであなたが怪我をしたら責任とれないから、と
言うので、
しぶしぶ、また一人で来ればいいか、と息を吹き掛けず帰る、
弁天サロン内、二階の屋根裏のような展示室、階段を登って部屋に入るとまず部屋の真ん中くらいに梁があってその裏側に背の高い総ガラスのケースが置かれていて、
中に球状の白糸の束、半透明の薄い布でできた小さな枕が見える、
その背のような場所の置かれかたがおもしろい、
夕暮れで、蛍光灯がついていて、たぶん図版で見たことがある死者のための枕だと思われるものが、
暗闇から浮かび上がるように半透明のうつくしい光を放っていた
低い梁をくぐって表側から見ると、発掘品の土器の欠片や化石とともに糸を結ばれた土の器(舟)、球状の糸の束、貝紫染の紫の点が幾つもついた布が重ねられたもの、半透明の小さな枕が絶妙の位置、そこにあることの位置の確かさを秘めて置かれている
その後ろの壁側には事務用の灰色の棚の展示ケースがあって
発掘品の土器の置かれている中、白い布を敷きつめた上に糸を結んだ土の舟がたくさん置いてある仕切りが二箇所ある、そちらの土の舟は沈んでいてあまり見えてこない、
その壁の裏側にも展示スペースがあるが、電気がついておらず、常設展示品のみだと思われる、
もうひと部屋の机と椅子が置かれているほうにも、なにも作品は無いようだ、
次の日の朝、弁天島、八劔神社、寺などを見てまわる、
松岡徹の作品は古墳ぽいのや、韓国の塚っぽいのがあるが、
作品のキャラクターの形体が好きになれない、
作家の汚いもの、エゴですらないものか、
弁天サロン、
内藤さん達が、貝紫染めをするのに、貝殻を割って貝の黒い部分をカミソリで裂いて黄色い毒の部分を集める作業を手伝わしてもらう、
もう一度、自然光で弁天サロン二階の作品を見ると、
今度は、半透明の枕は落ち着いていて、
壁側の糸を結んだ土の舟達がたちあがって見えてくる、
むしろ発掘された土器よりもうつくしいような存在感を放っている土の器の自然光の光と陰、
こんなにも光りによって違って見えるとは、
この時、
自然光は自然につくられたものをうつくしく見せ、
人工照明というのは、人工物(というより機械工物)をうつくしく見せるのではないかという、
見方がたちあがる、これはちょっとした発見だった
もう一度、一人で野外作品「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」を見に行く、
一人、海辺の波打ち際に立つ白い樋を眺め、
打ち寄せる波の音と波の動きを視界にいれながら、海に向かって、
白い樋に入った水に息を吹きかけると、
その水の震えは、精霊がひかえめにダンスを踊るようにうつくしい振動をおこした
波の激しい力と樋の上の小さな水の震え、そのイメージはあまりにすばらしい
ただ、この精霊のようにうつくしい水をいれる器が、
白い焼き付け塗装のステンレス製であることが、
京都の美術館内での展示の樋の作品の時は気にならなかったが、
この海のことを知らない形体と素材は、
海のテリトリーにおいて、精霊の器としてがっかり感は否めなかった
美術館という家のテリトリーにおいて、ステンレス、鉄は主張しない普通のものとして存在するが、
海という自然と自然光のテリトリーにおいて、それは逆に主張が強すぎるのではないか、
これをたとえば、木か石か、それとも、この場所を知っている、海を知っている内藤さん自身がステンレスでも手をつかって形体をつくったならば、非常に深い感動を憶えただろうと思う、
内藤礼さんは、そういう意味では都市の巫女なのだ、
それは弁天サロンの庭に吊り下げられたリボンにも言える、貝紫染めの精霊の紫はあまりにうつくしいのだが、その寄り代としての、市販のリボンはやはり形体として、機械製品の単調さを伝えてしまう、そしてそれが自然光のなかではあらわになってしまう、
それは都市においては自然なことであっても、佐久島という場においては、不自然なものとして、
佐久島にあるべきものとして見えてことない、
内藤さんのいう、普通のなんでもないものが、神聖なものに変わる瞬間が見たいというのも、わかるけど、やはり内藤さんが手で織った布が貝紫染めで染められたものが、究極的にはうつくしいだろうということを想うと、それを見たいと想ってしまうのである
特に野外という自然のテリトリーにおいては、
そのことを内藤さんに感想として告げると、
機械工物には生命の振動のようなものが宿らないのではないか、という僕の意見に、
ほんとにそうですか、という問をお返しに投げかけられた、
これは僕にとってもひじょうに問題であるところである、
平田五郎さんの「大葉邸」の鍵を借り、見に行く、
漆喰でできた白い部屋、平田五郎さんのゼミの時、佐久島のパンフレットを見せてもらって、
行きたいと思っていたところで、平田五郎さんは好きな作家だ
石の庭に入ったスリットの水路、
庭側から白い部屋がアクリルボード越しに見える、
鍵を開けて屋内にはいると中は暗く、
奥にいくと、窓からの柔らかな色の光が見える
さらに奥へ行くと、白い漆喰の部屋がアクリルボード越しに見える、
竈の部分にもガラスの作品が置いてあるようだが、暗くて見えない、
電気が切れているようだ、
帰ってから、係りの人に聞くが、切れてるみたいですね、と迅速な対応がまるでない、
あきらかに、管理者に問題があると思われる、
直島の内藤さんの「きんざ」が島の人に護られていっているのと対照的な、
「大葉邸」であった、出来た当事は美しかっただろうが、
うちすてられた感があった、やはりアクリルボード越しではつまらないし、
作品が暗くて見えないというのもひどい状態だ
島の神社や寺を巡る、
山の神塚古墳、向かいの森は沖縄の森に近い神聖な静けさを保っていた、
柵がついて中にははいれない、
島を縦に横断するような道は、地図には書いてあるが、草が生い茂っている、
しかし古墳や神社を探して、掻き分け進む、
人があまり来ない森の小道には、静けさと揺らめく木漏れ日のうつくしい域がある、
草の実をいっぱい張りつけながら、島を歩く、
神社を探して、みかんの果樹園にいたおじいさんに道を尋ねる、
高い石垣に囲われた神社を見て、戻ってくると、おじいさんがみかんでも食べてけ、と
3つばかりうまそうなの選んで、くれる、
無農薬だから形は悪いけど、と
水を忘れて、ちょうど喉が渇いていたので、
すっごい甘くてうまかった、ありがとうございますと言って、
また来てな、とおじいさん、こういうのはすごくうれしい
他のアート作品はほとんどつまらなかった、カモメの看板がいっぱい立ってるのとか、
浜辺の昼寝用のボックスとか
しかし、内藤さんの弁天サロンの庭の作品は、
朝、係りの人が紐に吊り、夜にはしまう、
まるで洗濯する人のように、
おそらく、直島における体験
島の人に作品をゆだね、
護っていってもらうという体験から生まれた
感覚からめばえていっているものだろうけど、
その人々の生活にとけいって、
うごいていく動作にまで
作品というものが入っていっているというのは
すごいことだとあらためて思う
2006-11-09 内藤礼×中沢新一“話と対話”
内藤礼×中沢新一“話と対話”10月28日2時より、佐久島弁天サロンにて
を聞きに、朝4時に起きて、電車で佐久島へ向かう
11時30分の渡船で行こうと思っていたが、3分の乗継ぎを逃して、
1時半の便で、着いたら即弁天サロンへ、内藤さんに会う、
部屋は小さくて、定員50人ということだったが、廊下とかも使えば、
もっと人は入れただろう、来たかった人多かったはずだ、
それでも、野外作品の観賞のことを考えると、あれぐらいの人数が限界とも思える
最初、中沢新一が一人で話す、
聞いていると、それは違うんじゃないか、と突っ込みたくなる、
がイベントの最後まで観客の意見を聞く時間は設けられなかった、
なんとも、中沢新一には権威的な感じがする
西洋の芸術は自然や環境から切り離されたところで成立していて、
日本には明治まで芸術の概念はなく、あくまで職人だから、
自然や雇い主の意見に制限されるが、それと折り合いをつけることで成立している、という
西洋の芸術が自然や環境から切り離されて成立しているなんて、まったくよく言えたものだ、
本当にすぐれた表現(芸術)が自然や環境から切り離されて存在するわけはない、
それは西洋、東洋なんて関係がない、
むしろ日本の表現のほうが、形式的、抽象的であって、
中国の山水画と日本の水墨画や中国の仏像と日本の仏像を比べると、
中国は自然から学ぶリアリティがあって、日本のは中国の模倣や抽象的な平面的な表現が見える、
それでも、「松林図屏風」や「秋冬山水図」が自然から生まれ、それを超越するかのように存在しているのは、すぐれた表現(芸術)が日本にもあったということだ、
しかしそれが芸術というくくりで呼ばれることがなかったのはなぜかということのほうが、問題だと思う、
実際中沢新一も、北斎のようなすぐれた芸術家という呼び方をして、しかし絵師だったという、
つまり現在の芸術という見方でみれば、日本にも芸術はあった、しかしそう呼ばれなかった、ということで、アートに訳として芸術と言う言葉が誕生した瞬間、
日本においての芸術という言葉の内容が掬いあげられた、
それはやっぱり西洋のものとは、少し違う、それは豊かな自然や湿度、地震、島国などの環境から生まれるものだろう、
ヨーロッパにおいては印象派やルネッサンス以後の表現など自然は師だという感じがする、
というか、自然や環境から切り離されて、表現が成立するわけがない、
ラスコ−の壁画を例に出したが、牛の表現など、環境から生まれているんじゃないか、と聞くが、
なんか三層くらいになっていて、暗闇から生まれた光があるらしい、それは見てみたい、
その感じ、水煙型縄文土器に感じたもの、抗自然的なイメージにもつながるのかもしれない、
だから、西洋、日本とかいう括りはまったく役に立たず、
ただ日本には豊かで強力な自然があって、それと付き合ってきたし、付き合わざるを得なかったというだけで、ただそれだけなんだろう、だからそんな簡単な言語で語ってしまえない、複雑に入り組んだものを解きほぐすように語っていかないとならないだろう、
聖フランチェスカや修道士やチベットの坊さんのような、自由を制限することで、宇宙と繋がるような、内藤さんの作品も野外の作品など、吹きかけることを求める、観客に制限を求めるなどとつなげるが、確かにきんざなども時間を決めて一人で見るなど観客にとっての制限があるが、
その制限という言葉を本人達がつかうかというと疑問だし、
ちょうど、佐久島に着く前にサリンジャーの「フラニ−とゾーイ−」を読み終え、
フランチェスカについて、宗教と愛について、もっと自由でいいんだ、というイメージの解放を受取っていたので、
ふつうエゴだと言われているものは、エゴでもなんでもなく、エミリーディキンソンが詩を書きたいという時の衝動もエゴだと否定できない、
世の中のひとが自分の真のエゴに向かって生きればいい
中沢新一も言っていたけど、職人の動き一つ一つが阿弥陀の動きになるようなものに、制限なんて、客観的、学者的、他人事的立ち位置の言葉が吐けることが、気に喰わない
小説における自由は、それ以外選べないという状態であると、
小説家の保坂和志が言っていたことが印象的だが、
自由とはそういうものだろう
内藤礼さんとの対談、
内藤さんは感動的にうつくしいことを話していた、
直島のきんざは、ほんとうはなにもなくてもいいんだけれど、
そのなにものかの気配をわかるようにするために最小限ことをする、
そのなにもなくてもいいという言葉の底の見えないイメージに僕は驚きを感じていた、
貝紫染めの貝を殺して採った毒を使って染めたものが、色として生きはじめることが、
昔のひとは精霊と呼んだのではないか、という内藤さんの言葉はあまりにもうつくしかった、
内藤さんはうまくしゃべれなかったと言っていたが、ものすごく伝わったし、
内藤さんは、深く刺激的な内容に向かっていくのに、
中沢新一がするりと躱すような印象だった、
を聞きに、朝4時に起きて、電車で佐久島へ向かう
11時30分の渡船で行こうと思っていたが、3分の乗継ぎを逃して、
1時半の便で、着いたら即弁天サロンへ、内藤さんに会う、
部屋は小さくて、定員50人ということだったが、廊下とかも使えば、
もっと人は入れただろう、来たかった人多かったはずだ、
それでも、野外作品の観賞のことを考えると、あれぐらいの人数が限界とも思える
最初、中沢新一が一人で話す、
聞いていると、それは違うんじゃないか、と突っ込みたくなる、
がイベントの最後まで観客の意見を聞く時間は設けられなかった、
なんとも、中沢新一には権威的な感じがする
西洋の芸術は自然や環境から切り離されたところで成立していて、
日本には明治まで芸術の概念はなく、あくまで職人だから、
自然や雇い主の意見に制限されるが、それと折り合いをつけることで成立している、という
西洋の芸術が自然や環境から切り離されて成立しているなんて、まったくよく言えたものだ、
本当にすぐれた表現(芸術)が自然や環境から切り離されて存在するわけはない、
それは西洋、東洋なんて関係がない、
むしろ日本の表現のほうが、形式的、抽象的であって、
中国の山水画と日本の水墨画や中国の仏像と日本の仏像を比べると、
中国は自然から学ぶリアリティがあって、日本のは中国の模倣や抽象的な平面的な表現が見える、
それでも、「松林図屏風」や「秋冬山水図」が自然から生まれ、それを超越するかのように存在しているのは、すぐれた表現(芸術)が日本にもあったということだ、
しかしそれが芸術というくくりで呼ばれることがなかったのはなぜかということのほうが、問題だと思う、
実際中沢新一も、北斎のようなすぐれた芸術家という呼び方をして、しかし絵師だったという、
つまり現在の芸術という見方でみれば、日本にも芸術はあった、しかしそう呼ばれなかった、ということで、アートに訳として芸術と言う言葉が誕生した瞬間、
日本においての芸術という言葉の内容が掬いあげられた、
それはやっぱり西洋のものとは、少し違う、それは豊かな自然や湿度、地震、島国などの環境から生まれるものだろう、
ヨーロッパにおいては印象派やルネッサンス以後の表現など自然は師だという感じがする、
というか、自然や環境から切り離されて、表現が成立するわけがない、
ラスコ−の壁画を例に出したが、牛の表現など、環境から生まれているんじゃないか、と聞くが、
なんか三層くらいになっていて、暗闇から生まれた光があるらしい、それは見てみたい、
その感じ、水煙型縄文土器に感じたもの、抗自然的なイメージにもつながるのかもしれない、
だから、西洋、日本とかいう括りはまったく役に立たず、
ただ日本には豊かで強力な自然があって、それと付き合ってきたし、付き合わざるを得なかったというだけで、ただそれだけなんだろう、だからそんな簡単な言語で語ってしまえない、複雑に入り組んだものを解きほぐすように語っていかないとならないだろう、
聖フランチェスカや修道士やチベットの坊さんのような、自由を制限することで、宇宙と繋がるような、内藤さんの作品も野外の作品など、吹きかけることを求める、観客に制限を求めるなどとつなげるが、確かにきんざなども時間を決めて一人で見るなど観客にとっての制限があるが、
その制限という言葉を本人達がつかうかというと疑問だし、
ちょうど、佐久島に着く前にサリンジャーの「フラニ−とゾーイ−」を読み終え、
フランチェスカについて、宗教と愛について、もっと自由でいいんだ、というイメージの解放を受取っていたので、
ふつうエゴだと言われているものは、エゴでもなんでもなく、エミリーディキンソンが詩を書きたいという時の衝動もエゴだと否定できない、
世の中のひとが自分の真のエゴに向かって生きればいい
中沢新一も言っていたけど、職人の動き一つ一つが阿弥陀の動きになるようなものに、制限なんて、客観的、学者的、他人事的立ち位置の言葉が吐けることが、気に喰わない
小説における自由は、それ以外選べないという状態であると、
小説家の保坂和志が言っていたことが印象的だが、
自由とはそういうものだろう
内藤礼さんとの対談、
内藤さんは感動的にうつくしいことを話していた、
直島のきんざは、ほんとうはなにもなくてもいいんだけれど、
そのなにものかの気配をわかるようにするために最小限ことをする、
そのなにもなくてもいいという言葉の底の見えないイメージに僕は驚きを感じていた、
貝紫染めの貝を殺して採った毒を使って染めたものが、色として生きはじめることが、
昔のひとは精霊と呼んだのではないか、という内藤さんの言葉はあまりにもうつくしかった、
内藤さんはうまくしゃべれなかったと言っていたが、ものすごく伝わったし、
内藤さんは、深く刺激的な内容に向かっていくのに、
中沢新一がするりと躱すような印象だった、
2006-07-28 束芋「ヨロヨロン」、若沖「プライスコレクション」
束芋展は正直、ひどかった
束芋さんは絵がへただから、見ていられなかった、
特に新作の「ギニョラマ」とかいう夜しかみれないやつ、
手描きで色つけたのとか、酷かった
浮世絵をカット&ペーストして色をつける技法は
おもしろいなと思っていたが、
額に入ってる一枚絵はわるくないけど、
アニメの絵がへた「真夜中の海」も
「公衆便女」はアイデアはおもしろいのだが、
いかんせん絵がへた、自然のリズムをとらえていないということだろう
見ていて、元気がなくなった
まだワークショップでつくった映像のほうが
音楽含めておもしろかった、息ができるというか、
ノルシュテインの映像見たことないらしいから、
はやく見た方がいいと思う
若沖はあそこまで細密描写してセンスわるくならないというのは
すごい、ニワトリと紫陽花、
やはり静岡県立美術館のほうがいい升絵、
蕭白の気持わるいシツのうつくしさ、
しかし、この展覧会に出ているものはすべて、
全体感がない、絵の中に意識の通っていない部分がある、ということだ
掛け軸の細長い形体がそれを誘発するのか、
全体感、つまり、すべてはつながっているということ、
世界があるということは
魂籠ってるということを感じさせるのは、
今のところ、ここに載せたやつ
http://sugihara.blog27.fc2.com/blog-entry-36.html
と、フェルメールもそうですね、
ドレスデンの美術館で絵が四角で見えてくるのは
フェルメールの絵だけだった、
穴がないんですよね
絵に
![vermeer-girl-at-window[1]1.jpg](http://blog-imgs-23.fc2.com/s/u/g/sugihara/vermeer-girl-at-window[1]1.jpg)
ちなみにほんとにすごい絵は写真でみるのと
本物をみるのでは、びっくりするほど違うので、
この画像ではまったく伝わりませんがね
光の演出による、牛と象
夜の吹雪の木、銀箔の鳥、は
インスタレーションとしておもしろかった
束芋さんは絵がへただから、見ていられなかった、
特に新作の「ギニョラマ」とかいう夜しかみれないやつ、
手描きで色つけたのとか、酷かった
浮世絵をカット&ペーストして色をつける技法は
おもしろいなと思っていたが、
額に入ってる一枚絵はわるくないけど、
アニメの絵がへた「真夜中の海」も
「公衆便女」はアイデアはおもしろいのだが、
いかんせん絵がへた、自然のリズムをとらえていないということだろう
見ていて、元気がなくなった
まだワークショップでつくった映像のほうが
音楽含めておもしろかった、息ができるというか、
ノルシュテインの映像見たことないらしいから、
はやく見た方がいいと思う
若沖はあそこまで細密描写してセンスわるくならないというのは
すごい、ニワトリと紫陽花、
やはり静岡県立美術館のほうがいい升絵、
蕭白の気持わるいシツのうつくしさ、
しかし、この展覧会に出ているものはすべて、
全体感がない、絵の中に意識の通っていない部分がある、ということだ
掛け軸の細長い形体がそれを誘発するのか、
全体感、つまり、すべてはつながっているということ、
世界があるということは
魂籠ってるということを感じさせるのは、
今のところ、ここに載せたやつ
http://sugihara.blog27.fc2.com/blog-entry-36.html
と、フェルメールもそうですね、
ドレスデンの美術館で絵が四角で見えてくるのは
フェルメールの絵だけだった、
穴がないんですよね
絵に
![vermeer-girl-at-window[1]1.jpg](http://blog-imgs-23.fc2.com/s/u/g/sugihara/vermeer-girl-at-window[1]1.jpg)
ちなみにほんとにすごい絵は写真でみるのと
本物をみるのでは、びっくりするほど違うので、
この画像ではまったく伝わりませんがね
光の演出による、牛と象
夜の吹雪の木、銀箔の鳥、は
インスタレーションとしておもしろかった
2006-07-15 ジャコメッティ展、葉山
葉山の美術館のジャコメッティ展を見に行く、
かなりの見ごたえのある作品数、必見の展覧会ですね
弟、ディエゴの像がいいですね、
その鼻梁には崖を感じる、
頸まわりの気配には、
生の存在が、
見つめることで成立する彫刻、
触れるのではなく、見つめることが触れることなんだ
デッサンもいい、
矢内原の石膏の彫像にはアルカイックな印象がある
ブロンズと石膏の関係
細く小さな女の立像も美しい、
ディエゴの像は二体とも日本の美術館で見たことあるやつだったけど、
ただ美術館の白さ、床の木目の荒さゆえに置かれた、
白い台、この無味無臭な感じは、なにか間違っている
ジャコメッティのアトリエの匂いが漂う場でこそ、見たい
絵画は額ありきで、美術館においても成立する、他者がつくった額という場という仲介において、
彫刻の台があんなに真っ白では、つまらない、
芭蕉さんの奥の細道の紀行文という旅の場から、
立ち上がる俳句という、
形式のすばらしさ
かなりの見ごたえのある作品数、必見の展覧会ですね
弟、ディエゴの像がいいですね、
その鼻梁には崖を感じる、
頸まわりの気配には、
生の存在が、
見つめることで成立する彫刻、
触れるのではなく、見つめることが触れることなんだ
デッサンもいい、
矢内原の石膏の彫像にはアルカイックな印象がある
ブロンズと石膏の関係
細く小さな女の立像も美しい、
ディエゴの像は二体とも日本の美術館で見たことあるやつだったけど、
ただ美術館の白さ、床の木目の荒さゆえに置かれた、
白い台、この無味無臭な感じは、なにか間違っている
ジャコメッティのアトリエの匂いが漂う場でこそ、見たい
絵画は額ありきで、美術館においても成立する、他者がつくった額という場という仲介において、
彫刻の台があんなに真っ白では、つまらない、
芭蕉さんの奥の細道の紀行文という旅の場から、
立ち上がる俳句という、
形式のすばらしさ
2006-06-03 荒川修作「三鷹天命反転住宅」
見学会に行く、
キューブ、球体、円柱の部屋自体が建築空間を構築するという
建築システム自体の革新によってつくられた空間、
しかし、建築家ではない芸術家が建築つくっちゃったという感じの
家としての機能の欠陥、
ディティール、マテリアルに対する無関心、
8000万円も払って、あの狭っくるしいシャワー、
ドアのない空間の中心にある使いにくそうなキッチン、
天井にべたべた張りついたフックなど
問題点が目につく
本人もこういう家に住んでるのかというと、
本人は思考に集中できないからと、ニュートラルな部屋に住んでいるという、
実際に部屋に暮してみてもいないようだ、
実際暮してみれば、改善点がいくらでも見つかりそう、
使用方法に書かれていることは、おもしろいが、
その内容を建築が語るとは思えない、
そこがディティールとかマテリアルな部分で
すっぽり抜け落ちた部分を言葉で説明している印象、
太陽が生まれるなんて、あの建築からは考えられない、
ただ実際暮してみないと、本当のところはわからないが
作家が話す言葉から作品がずれるということは多いから、
言葉は無視したとしても、
でこぼこの床以外におもしろいと思うものはない
ただ帰り道で東京の都市の建築物の直線的にかしこまった空間が非常につまら
なく感じたというのは、驚きだった、
建築する身体とかいう空間の作用があったということだろう
説明してた係の女の人が、
コンクリのパーツを組み上げた状態が一番おもしろかったと
言ったのが、印象的で、
まさに骨格の部分はおもしろいのだが、
ディティールがない、
心なんて窓の外に投げ捨てちまえって言ってた部分の欠如につながる気がする
その両方があって初めて、
太陽が生まれるような空間が生まれるのではないか、
だから今は、身体感覚に一撃を加える建築物としては
一験の価値はあると思う
気に食わないけど
建築空間の在り方を革新してるんだろうな
基本のシステムを揺るがすということは、
たしかにすごい影響が起こることだな
http://info@architectural-body.com
平行、水平、垂直の建築空間は
精神の器として、人間の意識の基礎をつくっている
そこを変えれば、劇的な変化が起こるのではないか、
そういえば「三鷹天命反転住宅」は未来の家のような印象がある
あれから抵抗感を奪って、平滑にしたものが流通しそうな気がする
あと免疫抗体とかそういう細胞の構造をモデルにしているのではないか、
そういうのは学びたいな、
家のデザインしたときも、水平垂直平行の箱のイメージしか浮かばなかったこと
それは箱ということがイメージコンセプトにあったからだけど、
その水平垂直平行というのがイメージにもしっかりと染みついているということで
それを壊すというのはぜひやってみたいなと思う
「養老天命反天地」は落ちぶれたアミューズメントパークみたいで、失敗だったと思うけど、
家というだれしもが共有しているものであれをやったことで成功したのだろう、
アミューズメントパークみたいなのはなんでもありだから、変なことやっても
別におもしろくないけど、
家という建築のあたりまえを揺るがすことで、
その場ではディティールが悪いから感じなくても、
その場を離れて、都市の空間にはいった時にその効力に気づくというのは、おもしろい体験だった、たしかになにかが揺るがされる体験というのは、ゲージゅつとかいう奴みたいな気もする
しかも家に人が住んで、手をいれつづければ、落ちぶれたアミューズメントパークみたいに
悲しい様相を呈すことがないかもしれない、
でもあの値段では家としては売れなそうだから、廃虚になってしまうかもしれないけれど
世界観の変革というのは芸術というものの内容のように見えるが、
その 物、場自体が語るのではなく、
差異によってもたらされる変革は、
それを名付けるのなら、
芸術ではなく
土台と柱という建築システムからの脱出による
建築における革命
なのではないか
キューブ、球体、円柱の部屋自体が建築空間を構築するという
建築システム自体の革新によってつくられた空間、
しかし、建築家ではない芸術家が建築つくっちゃったという感じの
家としての機能の欠陥、
ディティール、マテリアルに対する無関心、
8000万円も払って、あの狭っくるしいシャワー、
ドアのない空間の中心にある使いにくそうなキッチン、
天井にべたべた張りついたフックなど
問題点が目につく
本人もこういう家に住んでるのかというと、
本人は思考に集中できないからと、ニュートラルな部屋に住んでいるという、
実際に部屋に暮してみてもいないようだ、
実際暮してみれば、改善点がいくらでも見つかりそう、
使用方法に書かれていることは、おもしろいが、
その内容を建築が語るとは思えない、
そこがディティールとかマテリアルな部分で
すっぽり抜け落ちた部分を言葉で説明している印象、
太陽が生まれるなんて、あの建築からは考えられない、
ただ実際暮してみないと、本当のところはわからないが
作家が話す言葉から作品がずれるということは多いから、
言葉は無視したとしても、
でこぼこの床以外におもしろいと思うものはない
ただ帰り道で東京の都市の建築物の直線的にかしこまった空間が非常につまら
なく感じたというのは、驚きだった、
建築する身体とかいう空間の作用があったということだろう
説明してた係の女の人が、
コンクリのパーツを組み上げた状態が一番おもしろかったと
言ったのが、印象的で、
まさに骨格の部分はおもしろいのだが、
ディティールがない、
心なんて窓の外に投げ捨てちまえって言ってた部分の欠如につながる気がする
その両方があって初めて、
太陽が生まれるような空間が生まれるのではないか、
だから今は、身体感覚に一撃を加える建築物としては
一験の価値はあると思う
気に食わないけど
建築空間の在り方を革新してるんだろうな
基本のシステムを揺るがすということは、
たしかにすごい影響が起こることだな
http://info@architectural-body.com
平行、水平、垂直の建築空間は
精神の器として、人間の意識の基礎をつくっている
そこを変えれば、劇的な変化が起こるのではないか、
そういえば「三鷹天命反転住宅」は未来の家のような印象がある
あれから抵抗感を奪って、平滑にしたものが流通しそうな気がする
あと免疫抗体とかそういう細胞の構造をモデルにしているのではないか、
そういうのは学びたいな、
家のデザインしたときも、水平垂直平行の箱のイメージしか浮かばなかったこと
それは箱ということがイメージコンセプトにあったからだけど、
その水平垂直平行というのがイメージにもしっかりと染みついているということで
それを壊すというのはぜひやってみたいなと思う
「養老天命反天地」は落ちぶれたアミューズメントパークみたいで、失敗だったと思うけど、
家というだれしもが共有しているものであれをやったことで成功したのだろう、
アミューズメントパークみたいなのはなんでもありだから、変なことやっても
別におもしろくないけど、
家という建築のあたりまえを揺るがすことで、
その場ではディティールが悪いから感じなくても、
その場を離れて、都市の空間にはいった時にその効力に気づくというのは、おもしろい体験だった、たしかになにかが揺るがされる体験というのは、ゲージゅつとかいう奴みたいな気もする
しかも家に人が住んで、手をいれつづければ、落ちぶれたアミューズメントパークみたいに
悲しい様相を呈すことがないかもしれない、
でもあの値段では家としては売れなそうだから、廃虚になってしまうかもしれないけれど
世界観の変革というのは芸術というものの内容のように見えるが、
その 物、場自体が語るのではなく、
差異によってもたらされる変革は、
それを名付けるのなら、
芸術ではなく
土台と柱という建築システムからの脱出による
建築における革命
なのではないか
