Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2006-11-08 墓について

    墓ばかり見ている

    壱岐の古墳、
    慶州の古墳
    江華島のドルメン
    木人美術館の木人
    高句麗の古墳
    大湯環状列石


    思えば、昔枕木を垂直に立てた絵を描いていた
    それを墓のようだと描いた後に思っていた

    長野に建てた展示館も頭蓋骨を納める墓の家なのだろう

    墓でも、埋めてしまうのと、
    空間があるがある、

    墓に空間があるのは、蘇りや死後の世界のことを想って作られているのだろう

    沖縄の亀甲墓(女性器型)、壱岐の古墳(女性器型)、高句麗古墳
    大湯環状列石(男女混合、立石のストーンサークルと壷型の地下空間)

    埋めたて式は、どこか閉じ込める、
    蘇ってこないでくれというイメージがあるような気がする
    ドルメン、慶州の古墳、日本の墓(男性器型)

    韓国の墓は今でも古墳型で、燃やさず土葬だそうだ、
    日本の墓はストーンサークルから来ているのだろう

    フェルディナン・シュバルの理想宮も墓だ

    ‥‥‥‥‥‥、

        2006-11-08 美術解剖学、石川賢治さん講義

    写真は瞬間を切りとることが多いだろうけど、
    長時間露光の月光写真からは、ある一刻のような時間の堆積、
    震えのひかりを感じた、
    日差しが暮れていく、その時間のうつろい、一瞬ではなく一刻、
    その特別な時間に身を置いている時、そのかけがえのなさに
    立ち居降りている、

    満月に大自然の中に一人はいっていく、生理のような
    姿の過ごしかたには、潔いリズムと、
    その時を浴びた態が語ることがあるような気がする、

    月光はまぶしい、

    空が明るい写真より、うすぐらい、月の震えを伝える、
    花やメキシコの遺跡や波しぶきに月の光は焼きついていた

    最後の写真、月のアップの写真を見て、
    月は石なんだ、と
    直感が閃く、
    壱岐島で見た古墳の奥の巨石(僕は子宮石と呼んだが、鏡石と言うらしい)
    鏡石、まさに、神社の丸い鏡、
    再生を願う女性器形の古墳(大地と農作)
    潮の満ち干き、月、月光、石
    なんで月は光るんだろう、まぶしく
    月光は精霊や妖怪を呼ぶような光り、


    http://gekkouyoku.com/

        2006-10-16 木声

    神社の高い樹がそよぐ
    梢が風に鳴って、
    まるで喋っているように、
    声をとどけることがある、
    そういう場所ってヨーロッパにあるのか、出会ったことないな、と思っていたら、そうかヨーロッパには高い樹が残っていないんだ、
    天上からの音、頭上にひびく、声、
    木声、地球の息で奏でられる声
    遥かに遠い年月を経た樹木の肢体から発せられる声に
    耳が奪われる

    (海外でもあの木声を聞ける場所はあるかしら)、

        2006-07-28 言葉、すべて

    都市にいると、すべてがつながっているということが
    隠蔽されてしまう、
    だからぼくは、一つのものだけずっと描いていた、
    道路に咲く花はあまりに美しいが
    アスファルトの道路とは切り離されて
    存在しているように感じてしまう
    しかし、沖縄の御嶽しかり
    自然、森に包まれてしまうと、
    その圧倒的なものに
    すべてがつながっているんだという
    ゆるしのようなものを感じることができる、
    たぶんそれだけだと思う
    すべては









    すべてのものにカミが宿っていたとき
    食べた魚の骨を
    けして折らずに、ひとところの水の中に返していた時代、(貝塚が祭祀場だという)
    それを隠蔽する都市、
    もちろん今でも、たぶんすべてのものにカミは宿っているんだろうけど、
    工業製品などの機械工物にそれを見い出すのは非常に困難だ



    食と性、あわせて生である
    (ミキシゲオ、「胎児の世界」から)

    タブーとしてのエロスではなく
    生としてのエロスを

    ファーストフードでも嗜好としての食でもなく、
    神を食べる、生命の伝承としての食という、

    この二つを正常にとりもどさねばならないだろう

        2006-06-09

    ごくたまに、見るということに
    距離感が喪失してしまうときがある、
    そういうときは脳になんかおかしなことがおこってるんだろうな、
    と思う、
    見ることそのものが、
    膜になってぴったりと張り付いてしまって、
    距離ゼロになってしまう、
    体育館のようなホールのような場所の端っこに
    向かい合って立っているような、
    異常な距離間が頭のなかに生まれる時もある
    そういうのはだいたい人と向き合うとき、
    しかもそうとう切羽詰まった時だ
    なんなんだろうなそういうの

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