Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2007-02-13 祖霊と死と女神

    国立博物館、常設展
    芸大生は今年から無料になったが、120円だった学生料金が400円に
    これは高すぎる値上げだ
    しかしまあ無料だから、よく行く

    西洋美術はヨーロッパにくらべれば
    日本はたいしたもの持ってないから、
    やはりここから、なにかが生まれるのだろう

    朝ちょっとだけ寄っていく
    今はハート型土偶、
    「太公望・文王図」伝狩野元信筆のざらつくような世界のさわり



    縄文火焔型土器が見たかった

    火焔型土器は、生のうねりに漲っている
    昔見た時に、今のぼくの生きている世界からはつくれないものだと感じていた記憶、
    削る装飾ではなく、生の盛りあがりとえぐれ、
    その内臓的なうねりは当然と生まれている
    そのほうがあたりまえなのだ
    生命の外在化

    縄文火焔型土器と弥生の埴輪における断絶

    これを眺めていると、ふと埴輪というのは、死であると思った
    古墳のまわりに置かれていたという埴輪が死に関係するのは当然だが、

    はたして、縄文時代に死という概念があったのだろうか、
    すべてに神が宿っていた時代に死という概念が意味をなすだろうか、
    生命も無生物もすべてがつながって響きあっているなかで、死という途切れ、終りは
    意味を成さない、
    生と死はきりはなして使う言葉ではなかった、

    縄文時代の住居には入口に死者が埋葬されているものがあって、
    死を遠ざけはしなかった

    忌むべき死というのは、大陸からやってきた渡来人の弥生人によってもたらされた、
    稲作による備蓄と貧富と権力、人間的なるものによって生まれた
    卑しい目的の為による殺人によってこそ、忌むべき死という言葉が生まれたのではないか、
    出雲大社の大事主の祟り、

    そう、埴輪からは祖霊を祀る、死の世界の空っぽさを感じるが、
    火焔型土器は、生のリズムに満ちている、

    釣った魚を手で掴んだ時の、生の漲りのような、
    生を奪って、死を生へと換える、神を殺して、神を食べて生きる世界

    その世界に卑しい目的の殺人など存在しなかったのではないか、
    そしてカニバリズムの痕跡が見られるという縄文、
    すべてが神の世界においては死者を食べるという意味もまったく変わってくる、

    我々の身体が世界の一部を借りて、構成され流転しているのだから
    それが有機体という荒川修作の考えでもあり、

    死と言う概念こそが、諸悪の根源であり、
    人は死ぬのではなく、消えると言うのではないか、

    土に還ることは悲しいことでもなんでもない、
    そこから生まれる悲劇的物語は、まったく必要無いものではないか、
    死はほんとうは美しい、

    メメントモリという言葉は重要な言葉だと思っていたが、
    それは生命を奪って生きるという生から、遠ざかり、
    死さえも、忘れた人々には、有効な言葉だが、
    本当は死を生から切り離して使うことは間違いなのではないか

    荒川修作はそこで、永遠に生きたいという欲にいってしまったところが問題で、
    それが閉じた空間をつくる原因になっているのではないか、
    生と死は一つであり、死に抗う必要などない


    死とは、終りであり、切れることだ、
    ほんとうはすべてがつながっていて響きあっているのに、
    終りをつくりだしてしまった、
    その死という分断によって、今の分業化された世界が生まれてしまった
    神(生の響き)を(概念のなかで)殺した世界

    つまり今のアスファルトに覆われた地面や都市など、
    死と言う概念によってつくられた世界なのではないか、
    ほんとうは、すべてが響きあっている世界なのに、
    それが分断しているように見せられている世界、
    どんなつまらない工業製品にも分子レベルで見れば、
    世界と響きあっている、見せかけとして、
    世界は
    神(自然のリズム)から切り離されてしまったが、
    本当はつながっているのではないか、
    しかしこの都市において、すべてに神が宿っていると感じることは、
    ぼくにはできない、
    でもほんとうはそうなのだろう、
    沖縄の離島の御嶽や原生林のなかでは感じることができたから

    すべてに神が宿る世界においては、どんな生活の道具であっても、
    そこには命のリズムが流れなければならない、
    縄文土器がまさにそうだし、アイヌの服も、

    現代も、車もドアもタンスもすべて生命の外在化によって
    生のリズムを宿したものにならなければならないだろう、

    そういう世界を皆さん一緒につくりませんか?















    埴輪は死であると言ったが、それ自体にも魅力がある
    それ以降のもっとつまらない中国式の像なんかよりはまったくおもしろい

    ただ死に対する儀式と
    生に対する儀式の違いはもの凄く大きい
    土偶の女神が、妊婦である生の賛歌、


    だいたい、巫女さんの処女性や初潮の穢れに対するイメージは、
    縄文時代の女性上位から、
    男性上位に移り変わる時に、
    巫女から神主に移行した時に

    女性の力を恐れて
    神秘性を処女性に閉じこめたのではないだろうか、

    本当の神秘は生命を産み出す妊婦にこそ宿る

    禁欲ではなく開放された
    包容する女神こそが美しい





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    コメント

    私は、死を恐れないと思う。
    むしろ、憧れていた物だ。
    永遠の生を願う人間がいることが信じられない。
    それは地獄だと思う。
    生きてると美しいこともあるが基本は悲しみから出来ている。
    少なくとも私にとっては。
    西洋人が仏教を虚無崇拝と勘違いしたように、悟りとニヒリズムはかけ離れつつそばにある。
    現代社会に神聖を求めるのは無理がある。
    なんででしょうね?
    悲しいけど地球が爆発しない限り状況は変わらない気がする。
    じゃ、自分の神聖を求めればいい。
    同じような考えをもつ人が、少ないけど、いる。
    会話を出来る人間が。
    絵は、言葉より、もう少し、他に対して心を開く。
    本は読まないと世界が開けないけど、絵は瞬間で開いている。
    だから絵を描く。
    会話できない人と、コミュニケーションできるようになる。
    たとえ上っ面だけを、見られようと、何もないよりはいい。
    生きることはシンプルなのに、世界がそれをややこしくする。
    欲望と煩悩は、別の物でしょうか?
    私には解らない。
    禁欲に走って、リバウンドがきて、地獄の闇が来る。
    私が弱いからだろう。
    生きるのは苦しい。
    でも美しい。
    支離滅裂になりました。
    ひろみ。

    現代社会でも、神聖なものはあると思うよ、
    沖縄の離島とか、きっとチベットとかアフリカの部族とかにも、それも現代社会だ、
    でも都市化した社会では存在がむずかしい、
    それでも、洗濯機の渦をみつめる主婦とか、
    部屋に射し込む日差しと風に揺れるカーテンの一瞬とか、
    隙間から溢れ出てきているよ、それらを完全に抹殺することはできない、
    でも、それらは非常に見えにくい醜い形に変えられている、
    だから地球爆発しなくても、変わっていっていくと思うな、
    楽観的ではなく、自分も含めて世界なんだから、
    絵を一枚描いただけでも、世界は変わっているし、
    そして今のこの状況すべてが、
    ビックバーンから続く、
    なにか、始まりの端々達なのだから、
    ぼくらひとりひとりの今この瞬間が、
    だから世界がややこしくするんじゃなくて、
    人間の、主に頭を使った部分がややこしくしている
    そういう、くだらない人間の頭で囲った世界のイメージをぶっ壊していく人が、
    世界は響きあっているということを感じとっていた人が、すごい人だと思うよ、ゴッホとかセザンヌとか

    爆発しなくても、変わっていけば良いな。
    どうしても、悲観的になる自分がいますね。
    ぶっ壊して行きたいです。ほんとに。
    醜くゆがめられた中に神聖を見ると、逆に壊れそうになります。
    無力感かな、諸行無常の歪んだニヒリズムか?
    こんなことを考えるからいけないのかもね。

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