Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2006-11-12 内藤礼「返礼」、佐久島

    弁天サロン庭に張られた二本の紐に小さな木製の洗濯鋏でとめられた、
    うす紫色の細長い半透明な薄い布がニ本、風にゆられている、

    風が見えれば、なにもつくらなくてもいいかもしれない、
    貝紫染めで殺した貝が色として生きはじめることを精霊と、
    昔の人は呼んでいたのではないか、という内藤さんのうつくしく感動的な話しを聞きながら
    眺めていたが、
    本当に精霊の紫のように生きた色として見え始めた
    そこには言霊の力もたしかに働いていたような気がする

    動きはひじょうにうつくしく、不思議な精霊のようだった
    風は止まず、絶えず動きつづける半透明のうす紫色の布の動きをずっと眺めていた

    貝紫染めは、貝を割って、その毒(紫の補色の黄色をしている)をとりだして、海水で洗い上げて紫色に染める

    庭に出て、近づいて見る、二本のうち、奥のほうにある半透明の紫色は、言霊の力には関係なく、本当にうつくしい、生きているような色だった、しかしその布の素材の波打ちかたに、違和感を覚える


    野外作品鑑賞「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」
    内藤さんと中沢さんとともに島の道を歩く、
    防波堤のある海辺の道に出てしばらくいくと浜辺におりる、
    波打ち際の岩場の上に白い樋がすこしだけ曲がりながら、海へ向かって立っている、

    この時、中沢新一さんと話していたのと、人が多かったので、あまり作品と向き合えなかった、
    一人ずつ樋の水に息を吹き掛けるのだが、
    どうもたくさんの人が見ている中では、やる気にならない、
    これは、だれもいない海辺で、一人でやって来て、吹き掛けるべきものだ、と
    感じた、
    だから皆が帰り始めてから、最後に一人残って、作品と向き合おうとするが、
    係りのおばさんに早く来てください、帰りの舟に間に合わなくなる人がいるので、
    帰るまでが、作品鑑賞なので、もしここであなたが怪我をしたら責任とれないから、と
    言うので、
    しぶしぶ、また一人で来ればいいか、と息を吹き掛けず帰る、












    弁天サロン内、二階の屋根裏のような展示室、階段を登って部屋に入るとまず部屋の真ん中くらいに梁があってその裏側に背の高い総ガラスのケースが置かれていて、
    中に球状の白糸の束、半透明の薄い布でできた小さな枕が見える、
    その背のような場所の置かれかたがおもしろい、
    夕暮れで、蛍光灯がついていて、たぶん図版で見たことがある死者のための枕だと思われるものが、
    暗闇から浮かび上がるように半透明のうつくしい光を放っていた

    低い梁をくぐって表側から見ると、発掘品の土器の欠片や化石とともに糸を結ばれた土の器(舟)、球状の糸の束、貝紫染の紫の点が幾つもついた布が重ねられたもの、半透明の小さな枕が絶妙の位置、そこにあることの位置の確かさを秘めて置かれている

    その後ろの壁側には事務用の灰色の棚の展示ケースがあって
    発掘品の土器の置かれている中、白い布を敷きつめた上に糸を結んだ土の舟がたくさん置いてある仕切りが二箇所ある、そちらの土の舟は沈んでいてあまり見えてこない、

    その壁の裏側にも展示スペースがあるが、電気がついておらず、常設展示品のみだと思われる、
    もうひと部屋の机と椅子が置かれているほうにも、なにも作品は無いようだ、


    次の日の朝、弁天島、八劔神社、寺などを見てまわる、
    松岡徹の作品は古墳ぽいのや、韓国の塚っぽいのがあるが、
    作品のキャラクターの形体が好きになれない、
    作家の汚いもの、エゴですらないものか、

    弁天サロン、
    内藤さん達が、貝紫染めをするのに、貝殻を割って貝の黒い部分をカミソリで裂いて黄色い毒の部分を集める作業を手伝わしてもらう、

    もう一度、自然光で弁天サロン二階の作品を見ると、
    今度は、半透明の枕は落ち着いていて、
    壁側の糸を結んだ土の舟達がたちあがって見えてくる、
    むしろ発掘された土器よりもうつくしいような存在感を放っている土の器の自然光の光と陰、
    こんなにも光りによって違って見えるとは、

    この時、
    自然光は自然につくられたものをうつくしく見せ、
    人工照明というのは、人工物(というより機械工物)をうつくしく見せるのではないかという、
    見方がたちあがる、これはちょっとした発見だった

    もう一度、一人で野外作品「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」を見に行く、

    一人、海辺の波打ち際に立つ白い樋を眺め、
    打ち寄せる波の音と波の動きを視界にいれながら、海に向かって、
    白い樋に入った水に息を吹きかけると、
    その水の震えは、精霊がひかえめにダンスを踊るようにうつくしい振動をおこした

    波の激しい力と樋の上の小さな水の震え、そのイメージはあまりにすばらしい
    ただ、この精霊のようにうつくしい水をいれる器が、
    白い焼き付け塗装のステンレス製であることが、
    京都の美術館内での展示の樋の作品の時は気にならなかったが、
    この海のことを知らない形体と素材は、
    海のテリトリーにおいて、精霊の器としてがっかり感は否めなかった
    美術館という家のテリトリーにおいて、ステンレス、鉄は主張しない普通のものとして存在するが、
    海という自然と自然光のテリトリーにおいて、それは逆に主張が強すぎるのではないか、
    これをたとえば、木か石か、それとも、この場所を知っている、海を知っている内藤さん自身がステンレスでも手をつかって形体をつくったならば、非常に深い感動を憶えただろうと思う、
    内藤礼さんは、そういう意味では都市の巫女なのだ、
    それは弁天サロンの庭に吊り下げられたリボンにも言える、貝紫染めの精霊の紫はあまりにうつくしいのだが、その寄り代としての、市販のリボンはやはり形体として、機械製品の単調さを伝えてしまう、そしてそれが自然光のなかではあらわになってしまう、

    それは都市においては自然なことであっても、佐久島という場においては、不自然なものとして、
    佐久島にあるべきものとして見えてことない、

    内藤さんのいう、普通のなんでもないものが、神聖なものに変わる瞬間が見たいというのも、わかるけど、やはり内藤さんが手で織った布が貝紫染めで染められたものが、究極的にはうつくしいだろうということを想うと、それを見たいと想ってしまうのである
    特に野外という自然のテリトリーにおいては、

    そのことを内藤さんに感想として告げると、
    機械工物には生命の振動のようなものが宿らないのではないか、という僕の意見に、
    ほんとにそうですか、という問をお返しに投げかけられた、
    これは僕にとってもひじょうに問題であるところである、





    平田五郎さんの「大葉邸」の鍵を借り、見に行く、
    漆喰でできた白い部屋、平田五郎さんのゼミの時、佐久島のパンフレットを見せてもらって、
    行きたいと思っていたところで、平田五郎さんは好きな作家だ

    石の庭に入ったスリットの水路、
    庭側から白い部屋がアクリルボード越しに見える、
    鍵を開けて屋内にはいると中は暗く、
    奥にいくと、窓からの柔らかな色の光が見える
    さらに奥へ行くと、白い漆喰の部屋がアクリルボード越しに見える、
    竈の部分にもガラスの作品が置いてあるようだが、暗くて見えない、
    電気が切れているようだ、
    帰ってから、係りの人に聞くが、切れてるみたいですね、と迅速な対応がまるでない、
    あきらかに、管理者に問題があると思われる、
    直島の内藤さんの「きんざ」が島の人に護られていっているのと対照的な、
    「大葉邸」であった、出来た当事は美しかっただろうが、
    うちすてられた感があった、やはりアクリルボード越しではつまらないし、
    作品が暗くて見えないというのもひどい状態だ


    島の神社や寺を巡る、

    山の神塚古墳、向かいの森は沖縄の森に近い神聖な静けさを保っていた、
    柵がついて中にははいれない、

    島を縦に横断するような道は、地図には書いてあるが、草が生い茂っている、
    しかし古墳や神社を探して、掻き分け進む、
    人があまり来ない森の小道には、静けさと揺らめく木漏れ日のうつくしい域がある、
    草の実をいっぱい張りつけながら、島を歩く、

    神社を探して、みかんの果樹園にいたおじいさんに道を尋ねる、
    高い石垣に囲われた神社を見て、戻ってくると、おじいさんがみかんでも食べてけ、と
    3つばかりうまそうなの選んで、くれる、
    無農薬だから形は悪いけど、と
    水を忘れて、ちょうど喉が渇いていたので、
    すっごい甘くてうまかった、ありがとうございますと言って、
    また来てな、とおじいさん、こういうのはすごくうれしい

    他のアート作品はほとんどつまらなかった、カモメの看板がいっぱい立ってるのとか、
    浜辺の昼寝用のボックスとか
















    しかし、内藤さんの弁天サロンの庭の作品は、
    朝、係りの人が紐に吊り、夜にはしまう、
    まるで洗濯する人のように、
    おそらく、直島における体験
    島の人に作品をゆだね、
    護っていってもらうという体験から生まれた
    感覚からめばえていっているものだろうけど、
    その人々の生活にとけいって、
    うごいていく動作にまで
    作品というものが入っていっているというのは
    すごいことだとあらためて思う





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