Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

  • experience (12)
  • news (60)
  • exhibition (31)
  • word (47)
  • essay (4)
  • film (4)
  • review (30)
  • journey (59)
  • photograph (6)
  • performance (10)
  • architecture (2)
  • book (2)
  • workshop (13)
  • review&journey (1)
  • memo (2)
  • livepaint (0)
  • 最近の記事

    最近のコメント

    最近のトラックバック

        -------- スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

        2006-06-01 批評について

    そういえば、友人の作品に対して、感じたものを正確に伝えようとする、
    それは辛辣になることもあるが、あくまで
    よりいいものをつくってほしいという願いからだ、
    それは高橋悠治さんが言っていた、
    批評とは次の創造を刺激するようなものでなければならない
    というようなことを言っていたような気がする、につながるのか、
    それなら、
    なぜそれを作家本人だけにではなく、
    拡大して発信する必要があるのか、
    それは、おもしろいものは誰がつくろうがとにかく
    世界に広がれと想う
    気持に由来するのか、

    この頃喋りすぎるのは、
    調子がわるいからか、
    湿度が高いからか、
    ぼくを空間に留めるもの、
    音楽をもとめる




    創造が創造をよぶ
    というのは、なんかいいな、
    批評という創造
    スポンサーサイト

    コメント

    創造

    批評は何かのためにするのではなく、それ自身が創造的でなければ空しい。高橋氏の発言は批評がなにかってことじゃなく、処世的な側面をいってるのだろうね。
    創造的な精神活動によらない批評、たとえば知識のあるなしだとか、技術的な優劣だとか、社会的・美術史的な意義だとか、ある高みから作者を見下したようなのは押しなべて無理解な行為だと思ってる。
    批評それ自身が創造的であれば、いわれたひとは当然それに触発されるわけで、創造が創造によって、また創造を生むというながれが持続する。
    批評それそのものが創造的であるからこそ、批評を多くの人が共有する意味がある。そんなことだとぼくは思ってる。

    僕にとって、批評という言葉を考えてみると、どうも気に入らない言葉だなと思っていたのだけれど、実際親しい友人の個展などで、言葉を発するときの、心の在り方は、批評という言葉の内容と重なるのではないか、と気づいたことは、発見だった、でもその時も批評するなんて言葉は使いたくないけど、
    処世的な側面という言葉の意味がちょっとわからないけれど、どういう使い方なんだろう

    よりいいもの

    処世的な――といったのは、歯に衣着せずにいえば、ちょっと事後のいいわけがましいということです。「よりいいものをつくってほしいという願い」というのが、すでに「ある高み」に立っていて、その目線に相手が気をわるくする危険がある。他人の作品に向かう場合、それ以前に自分が汲みとりきれているかどうか、ほんとうに見切れているのか、そこが問題だし、よほど近しい作者でないかぎり通常はそうでないのだから、やはり汲みとることにおいては謙虚にならざるをえない。では、汲みきれてないのに、なにをいうべきか。
    そこで作品と自分とのあいだに生まれたものを注意深くさぐること、その意味をかんがえて表現することになると思ってる。なにも生まれないなら、なにも伝えることはないと思うんです。
    ちょっと批評から離れたかな。親しかろうと、そうでなかろうと、そのひとにとっての率直な「価値」を伝えることが一般的な批評で、より広い知識や視野をもって、その作品の社会的な「価値」を論じることを許されたひとが批評家なのだけど、ぼくはそこにコミットすることを避けているのかもしれない。
    学生同士がおたがいに批評しあったり、友人同士が批評しあったりすることはとても有益だと思うけど、それはあるコミュニティのなかで成立することで、社会一般でそれをやったら面倒がおこる。美学なんかでは十分に判断力のある鑑賞者を仮定して論を組み立てるようだけど、それは現実にはありえないから。
    ……ここまで書いて自分でも気がついたけど、ぼくのいってることのほうが高橋氏よりずっと処世的で狡猾だね。(笑)
    もともと批評というのは、ある時期定着した価値が、そのときの自分の感覚とズレてきたときに再評価のようなかたちで口にするものだから、この公式を個人にあてはめてみると、やはり自分がもってる時間や空間、気運のようなものと、目のまえの他者の作品のそれとのズレが引き金になって、そこにどんな意味や価値があるかってことだと思う。
    多くの場合は「違和感」にはじまるわけで、その違和感を安易に不機嫌に結びつけちゃうひとが作品のまえに立つのは論外として、そうでない場合にはその「違和感」がなになのかをしっかり考えなければならなくて、そこで考えたものは時には自分にしか意味をもたないから相手に伝えずに持ち帰ることもあります。面白さがあるときには伝えるかな。
    そんなふうに考えているときに邪魔になるものが作品に含まれていることがあって、そのときには「ここの、この部分がどうしても邪魔するんだ」という話はありそうな気がする。それが辛辣なことをいう場面かもしれない。
    いずれにしてもぼくには、「よりいいものをつくってほしい」と願うことではまったくないんです。書いていて、やっぱり自分が老獪で始末にわるい人間に思えてきたから、もうやめよう。
    自分自身に向けた研ぎすました集中力を失っている。他人のものを他人のものとして作ってる、そのことが誰かの作品に向かう以上にぼくには問題かな。年をとると作品も技法も、いろいろなものが遠く離れてしまう。友人同士で批評しあえる機会があるのは、それ自体がある一時期のことなのかもしれないから、自由にいろいろいって、喧嘩になるのもいいかもしれない。
    大人は自分をまもるために他者を遠ざける。そのくらい体がかたくなってる。それはもうただ無残なだけなんだ。なぐって血をながすほうがよほど正常な気がする。
    そう考えても、やはり「よりいいものをつくってほしいという願い」には同意できないな。いっそ胸ぐらを掴んで、その場で乱闘がはじまるほうがいい。

    よりいいものをつくってほしいというのは、僕の言葉で、高橋悠治さんはもっとすごくクールだ、
    たしかに、よりいいものをつくってほしいというのは、
    あまりいい言葉使いではなかったかもしれない、
    しかし、それは基本的な感覚として僕の中にあって、僕が感じるものをただ正確に相手に伝える、そこには自他の境界なく、本物以外見たくない、なぜならそれが切実に必要だから、狂気が狂気によっておさめられるような、

    早稲田での吉増剛造さんと灰野敬二さんのパフォーマンスで、灰野さんの音の呼び出しに、甘い取り巻きと講義を引きずって始めた吉増さんの言葉が答えられていなかったと僕は感じていて、実際吉増さんは途中で終えて、灰野さんを見る側に回ってしまったことに対して、事後の講義でもそれについて好意的な意見しかでなかった状況に腹がたって、聴講していた大学院の講義でそれをぶちまけたことによって、場を凍りつかせるということがあったけど、それも吉増さんのことが好きだからで、すごい人だとわかっているからこそで、どうでもいい奴にはなにも言わない、
    動きの部分では印象に残る空間はあったけれども、音ということに関して言えば、僕は感じたことを正確に言った、それによって血は流れるけれども、取り巻きとか、見手によって影響うけるものだから、そういう奴が居てくれたほうがうれしいと思う、
    大人になってそういうことを言わないという態度はほんと気に食わない、そういう行為一つ一つが世界を構成していってるんだ

    受けとれているかということより、ただ今の僕がどう感じたか正確に伝えることであり、それ以外できないと思っている、だからそういう人もいるという一例でしかない、
    その態度は、上からものを見るということではなく、ただそれが世界にとって、生きていくうえで、切実に必要だから

    コメントの投稿

    管理者にだけ表示を許可  

    トラックバック

    http://sugihara.blog27.fc2.com/tb.php/38-26c60c04

     | HOME | 

    FC2Ad

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。