Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2012-01-18 北海の霧と石を投げること

    「伝説はあたかも北海の霧が、寒暖二種の潮流の遭遇から生ずるように、
    文化の水準をことにした二つの部曲の、新たなる接触面に沿うて現れやすい」
    (『史料としての伝説』)という柳田の詩的な語りは、
    異なる世界の交わりが物語を生むということを指摘している。

    ―という非常に印象的な柳田國男の文章を引用した赤坂憲雄著『遠野/物語考』で読んだ一節。

    その「伝説」の部分を「イメージ」や「ビジョン」、「モチーフ」という言葉と置き換えることもできる。

    それは長野県大町市木崎湖畔で行われた「原始感覚美術祭」の
    詩人の吉増剛造さんと小説家の田口ランディさんの対談で語られた、
    吉増さんが石を一掴みして投げる話を受けて、ランディさんが
    「石を拾う意志と出会って投げることが生きてるって感じかなぁ」と
    言った時のその歩み、

    霧が立ち上るようにして石を投げる行為が生まれる瞬間のメタファー、
    吸い込まれるようにして、自らの中に違う時間が流れる、
    違う存在が流れ込むような、そのような場所、そこは未知なる他者との接触面、
    彼岸を見つめる視線、世界が私となって波打ってくる時間のような、

     その他者というのは人である必要はなく、動物や、炎や光や風、場、
    あらゆる原初からのつらなりとの出会い。自らを大きく超えた何者かとの交通、
    未知を受けいれる瞬間に立ち上がる衝動の現場に立つこと。
    私と言う存在をひもといて世界という存在へと解放していく時間

    そこには自己を常に超えた未知、未知なる他者の介在を必要とする、
    自己を開くという能動的な意志では届かない、
    自己が開かれてしまう場が生じるという受動、
    つまり自己と言う言語が機能しなくなる一瞬の創造、
    へと私たちは還っていく。そのようにして生きることの喜び。

    その場所を呼び出すのは、まったく思いもよらなかった傾きに身をあずけていくこと、
    常にそこには自己という閉域、硬くした身体に閉ざされない、
    「他者」=世界との“新たなる”接触面における、自己が世界に開かれる瞬間の受動、

    本当の意味での自己表現と呼ばれてきたものには常に、自己を超えるものの受動が行われてきた。
    つまり自己表現という言葉は厳密な意味では、すでに死語となっている。
    生活と表現が切り離されてしまったかに見える近現代の生み出してしまった閉域としての言語なのだろう。
    常に“新たなる”接触面へと今という人生を開いていくことへ


    コメント欄より:

    Ken Mogi Jan 1, 2012 08:14 PM
    自己を保つことと同時に、自己を拡大することが進化論的には適応的なのだけれども、
    この二つのベクトルは矛盾していて、そこに私たちの存在そのもののアポリアがあるんだろうね。

    Tsumabenicho Jan 1, 2012 09:49 PM
    とても興味深く読みました。
    自己の中でも、タナトス(死語じゃないですよね)として、すでに侵食が始まっているような気がします。
    わたしは、芸術に関わるような人間は、生の横溢というより、
    むしろこの侵食に快を感じる向きがあるのではないかと、思うことがあります。

    Sugihara Nobuyuki Jan 5, 2012 12:33 AM
    人の心を打つものは生の横溢とタナトスの間に生まれる軋みのようなものではないでしょうか、
    それは分けることができない常に重なりながら存在しているもののような気がします。

    タナトスという死の神が鉄の心臓と青銅の心を持っているというのは非常に示唆的ですね。
    死という概念自体が鉄と青銅によってもたらされたということ。

    ものを切ると言うことができるようになったことで、
    自然に沿って割れるというすべてが流転していることを断ちきって思考することができるようになった。

    おそらく縄文時代や石器時代には死という概念自体がなく、まったく違った思考であった。
    これは荒川修作の言っていた死ぬのではなく消えるというのに近いかもしれない。

    弥生時代以降、青銅器と鉄器による生命の流転を切るに思考によって、戦争が起こった。
    これは大陸からやってきた思考であり、殺した人の怨念を避けるために、死を忌み、墓を遠ざけた。

    縄文時代には死は常に再生と一つであったから、墓域は家の中や集落の中心にあったり、
    忌むべきものではなかった。

    これは近現代まで、中央の権力の届かない縄文的文化が受け継がれた地方には
    屋敷墓の文化などで残っている。死は決して忌むべきものではない。

    自己という限定的思考で観測することの限界が現在の科学であって、
    自己を拡大する=新たな大きさの自己を確立するとは違った状態や時間のことを述べたいと思っています。

    それは自己意識という表層が捉えきれていない
    自己と呼ばれるものの中にも存在している
    どこにでも存在しているオープンソース(開かれた源)へと開くこと、
    それは等式という閉じた思考では捉えられないなにかではないか。


    <slides and swings より転載>

    茂木健一郎の東京芸術大学の講義
    美術解剖学より派生したアートの語りの場に文章を寄せています。
    http://slidesandswings.blogspot.com/









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