Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2007-10-29 日の出の森、緑の森の一角獣座

    日の出の森にあった若林奮さんの緑の森の一角獣座が、
    廃棄物最終処分場問題でのトラスト地が強制収容されて、破壊されたが、
    場所を移して、残っているという話を友人に聞いていたので、
    日の出の森の活動をしている人に電話をして
    一角獣座の新しい庭を見せてもらいに行く

    電話してすぐ次の日だったが心良く
    車で移設先の個人のお宅に連れていってもらう
    青梅駅前でザクロが御自由にお持ちくださいと置いてあるのでもらっていく

    緑の森の一角獣座は吉増剛造さんが名付けたもので、
    若林さんの研究家によれば、一角獣座は若林さんの集大成の作品だったという話を道中聞く

    それを無惨に破壊した石原慎太郎という人間は芸術振興的な態度の陰で
    実はこういうことをやっていたのか、ディーゼル車規制の裏で日の出の森という
    うつくしい雑木林の水源地を破壊し、汚染している

    風の塔とその奥の丘に新しい庭と名づけられた
    若林さんの庭があった、
    石の枕と木が植えてあって
    トラスト地から持って来た樹木の生け垣と
    いくつかの自然石の空間、

    できた当時より植えられた木がずいぶん育って
    感じが変わったらしい、

    霧島アートの森にあった若林さんの
    4個の鉄に囲まれた優雅な樹々
    を発展させたイメージ

    ただこれがそうだと言われないとわからないくらいの存在感
    場と同化している

    おそらく作られた当時は、前面に成長した木や竹が低く、
    丘の見晴しがよかったのではないかと思われる

    あと木の添え木などもなかったのではと思われる

    若林さんは西洋的なイメージを背負って作ってきた人らしいので、
    自然をコントロールして庭をつくっている感じもする
    でも手入れをする人がいなくなれば、それは自然に呑み込まれてしまう

    そんななか静かな石達の列びは若林奮という人の残したものを
    たしかに伝えている

    植えられた木が3本というのも印象深い
    沖縄の御嶽の木も3本だし、
    竈の石も3つで火の神をあらわす

    後ろには墓があった場所、それは移設してしまったらしいが
    なにかの気配を感じさせる草の場
    その後ろには社があって
    さらに後ろにはお墓と竹林の中に
    網状の茸がたくさん

    敷地内にはヤギが一匹ないている
    お宅の人にも話を聞こうとするが、
    今日は体調が良くないらしく、また今度ということで
    水質調査のイベントも近々あると教えてもらう

    トラスト地の見渡せる場所まで歩いていく林道の入口まで車で送ってもらう
    雨がすこし降って来たが、今日のお礼を言って
    歩きだす

    沢沿いの杉林の道を30分くらい行くと、
    フェンス越しに処理場が見えてくる

    どこがトラスト地だったかよくわからないので、
    二ツ塚の自然道をフェンス沿いに歩く
    うつくしい青梅の自然の道の看板を見て、
    自然道の隣に最終処分場ぶっ建てる神経はどうかしてるとしか思えない

    そのあたりになると、水源地だけあって
    植生がかわり、緑豊かな雑木林の樹々やうつくしい石
    食べられそうな茸など、
    もっともうつくしく豊かな森が
    蹂躙され、汚染されてしまったんだと悲しい気持ちになるのと
    煙突からもうもうとあがる煙をみて、
    いち早くここから離れたいという気持ちがあって
    正面入口の側まで歩いていった

    車道にでて、歩いて1時間くらい武蔵五日市駅へ



    日の出の森のページ
    http://www.ne.jp/asahi/hinodenomori/tokyo/






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    コメント

    あの場所でのこと

    一角獣座は吉増さんの命名だったのか……あの沢は手に触れる何もかもが濡れてるような場所で、雨が降るととても厳しかった。
    焚き火の炎を雨から守るため、ぼくは薪をひろってずっと沢を右往左往してた。いい場所を人に譲り、濡れてるところで眠らずに夜をあかした。集まった人たちが出すゴミを集めて捨てに行くために、一日中泥だらけになって沢を上り下りした。ゴミ問題を訴えていても、ゴミがでる悲しさ。
    喜納昌吉さんが、ズルズルすべる赤土の沢を、ズルズルすべりながら応援にきてくれた。雨が降っていた。
    雨が降っているからテントを用意したけど、喜納さんはテントに入ろうとしないで、みんなといっしょに雨に打たれながら、ずっと歌を唄ってくれた。大切なサンシンも濡れて、弦が何度も切れたけど、それでも彼は雨のなかで唄い続けた。そしてまた、ズルズルすべる山肌を泥んこになってのぼって帰っていった。
    あの数日間だけでも行政側の卑怯さには山ほどいいたいことがあるけどきりがない。こころが怒りに支配されては、目の前の闘いしか見えなくなってしまう。怒ることも大事だけど、それを鎮めることも大事。そんな気がする。
    山も木も怒ってはいなかった。ぼくはそう感じた。

    水は命のもとです
    だから昔の人はあの森にけっして手をつけなかった
    周りはみんな杉林にしてしまったけれど
    そこで、照葉樹林という言葉
    島尾ミホさんが「ヤポネシアの海辺から」で奄美の照る葉の文化について話していて、パッと神社の森と沖縄の森が似ている、もともと日本に生えていた里山以前の照葉樹林の照る葉の森の木漏れ日の光と風に心を宿してきたのではないか、というイメージ、あそこはそんな森だったのではないか、「ブナ一本、田一反」という言葉を教えてもらったが、ブナは落葉樹だけど、いかに水の場所を大切にしてきたか、その場所を破壊したことは、先祖代々受け継がれてきた魂に対する冒涜であり、生命の知恵の崩壊である、山や木はヒトがいなくなって何千年後には蘇るだろうから、その痛みを抱えてくれるだろうけど、人間自体の山や森をしてあらわれる魂が汚濁されたことは、私達自身の魂の文化破壊行為だ

    こどものころ

    こどものころ、なぜ神社の森が売られるのか、理解できなかった。
    まる裸になって社殿だけ残ってもなんの意味もないように思えたのに、そう思わない大人たちがわからなかった。信仰とか、そういうこと以前に神聖なものを感じる場所だった。
    古城の堀だった沼地が埋められかけたとき、ぼくはなぜそうするのか大人たちにたずねた。彼らは「全部は埋めないで、堀は残す」といった。自然石の石垣はすべて取り除かれて、すみっこにネコの額ほどのコンクリートの枡が残った。ごていねいに噴水までついてた。ぼくの故郷から核がきえた気がして、以来あまり帰らなくなった。
    そうして出来た敷地に建っているのが、現在の山口県立美術館だ。ぼくはそのとき数百年の歳月そこにあった石垣の石、その一個にも満たない美術館と現代美術のことを知った。市内の中心部なのにその石垣にはカワセミがいて、毎日のように姿をみることができた。カワセミは小魚をとり、ぼくたちはザリガニを釣ってあそんだ。古城の掘割なんだけど、子供たちの間では「底なしの沼」というあだ名で呼ばれてた。(笑)

    UターンとかIターンとかいってるけど、精神的に拠りどころだった大切な水辺や森をコンクリートに変えておいて、いったい何を理由に故郷に帰れというのだろうね。

    理由があるとすれば、それはひとつ。コンクリートを打ち砕いて、もういちど自然にもどすことしかないような気がする。でも声高にはいわない。じっと時期をまっている。

    「ふるさとが好きか」と聞かれたら「好きだ」と答える。
    「どこが好きか」と聞かれたら「いま、その場所はない」と答える。

    小さい頃、学校になじめなかったから、
    休みのたびに帰る長野の森の記憶ばかりがゆたかな時として、想いおこされた、でもスキーが体育の時間にある生活をおくる従兄達にも、違う世界を感じていた
    長野の表の部分しか見ていなかった、だから、オリンピックやなんかで、変わっていった山や森の姿もわずかな気配でしか知らないし、
    木崎湖に流れ込む川が護岸コンクリ-トで覆われ、全く魚の姿がない、バスが密放流されて、ワカサギが採れなくなり、木崎湖にいた漁師は皆、陸に上がった(湖の漁師というのはとても不思議な存在だ)その昔をよく知らない、
    阿佐ヶ谷にも馴染めなかったから、中間的、中途半端な存在として、ふるさとがあるのかもしれない
    僕はこれを書きながら、さっき採ってきたばかりのクリタケをうどんに入れて食べて、コレハ、森の味だ とすこし土くさい風味の香りを体に取込んでいた、土地は自分の身体であるから、都市生活はきわめて狭められた身体性の中で暮らすことかもしれない、そして土地とともに暮らす人との共同体ということ、そこに放浪性の問題、放浪する身体性、「人間にとって最初の家は母の胎内である」マルグリット・デュラス、地の声というのはずっと響いているから、その厚顔な感性によって成立したアートと美術館というものは、いつか滅ぶだろう、むしろアートと呼ばれる側面が生かされるのは、そういった地との繊細な感性によった公共性、公共という言葉が、すでになにかが断ち切れている気もするから、共同性の地の声を聴くことにあるのかもしれない、コンクリ-ト時代はもうすぐ崩れるから、その変わり目に、地場と共同体という、身体が息を吹き返せばよいのかもしれない

    土地と身体

    身体が土地であるなら、ひとがふるさとに帰ろうとするのは、そのせいかもしれないね。脳の大きさとは無関係(?)にそうだとすれば、それは「記憶」のせいではないと思う。ふるさとに関してサケや渡り鳥と人間の脳がおなじ大きさしか持たないのなら別だが。

    身体につながった土地を求めて帰った人間が、その中間に立ちはだかるコンクリートをじゃまに思うのも自然なことだね。土地を回復したくなる気持ちも説明がつく。

    たしかにぼくは、過去の記憶を再現しようとは思っていない。そういう姿の再現ではなく、乾いたのどが水を求めるような、しばらく肉を食べてない胃袋が肉を求めるような、そんな欲求にちかい気がする。

    この30年間に文明が作ってきたもの、自然な感覚を継承できていない素材は、すべてじゃまな遮蔽物にすぎない。山口県立美術館ができるまえ、堀の向こうには美術館と博物館をかねた木造の県立博物館が建っていた。それは大きくないけど、大理石と赤レンガと木で作られたふるい洋館で、それには拒絶反応がなかった。

    電波とおなじように、ぼくたちが身体のなかに持っているものと、共振できる素材というのがある気がする。一般に自然素材といわれるものが好まれるのはそのためじゃないだろうか。と、土地と身体の話を聞いて思った。

    動物園のどうぶつ

    そうだ、ぼくは動物園にいって動物をみることが多いのだけど、かれらが檻のなかにいることが、あの場所をぼくにとっての思索の場所にしていたような気がする。
    野生であった動物がいて、檻があって、ぼくがいる。やはりあの動物たちとおなじ状況が、土地からコンクリートで隔絶された東京のぼくにもあったんだ。

    いま、はじめて理由がわかった気がする。

    ぼくは動物園で動物の写真を撮るけど、その分野では有名な林隆喜の写真集「ZOO」にはずっと違和感があった。

    コンクリ-トという素材そのものより、その工法、
    型にはめて、作るという方法に問題があるような気がする、出雲の銅剣の鋳造、まさに外側から何かを決定していくやり方が、平面的、人間のモノを切っていく思考方法とつながる、その一見すると自由な工法こそが、生命を無視した、人間中心な閉じた世界を生み出している、内から踊りだすように生まれ、最後に膜が生まれるようなものでなくては、コンクリ-トは私達の閉じた思考を代表する形体であり、結局、地とのつながりを遮蔽しているのは、私達の思考なのだ、自然を拒否する意志、それは死-停止への意志だ、体内の潮流と地の潮流の間に遮蔽物、断絶の意志を打ち立てている、地の風やうたや木漏れ日の渚のようなふれあいによって成り立っていた私達の身体はどこにいったんだろう、でもきっと都市も泣いている、コンクリートのビルだって、100円ショップに売られている石油製品だって、元は自然のなかで、ゆらいでいたものだ、それを人間の断絶の意志によってそういう形体にされてしまっただけだ、だから都市も啜り泣いているのかもしれない、私の身体という都市は

    その工法

    コンクリートも鋳造も、カタに入れるまえに素材を均質化するよね。均質なものを造形することで近代的なモノの自由を得てきたのが文明じゃないかな。現代でもそれは変わってないような気がする。デザインとか、いろいろいうけど、結局は均質な素材を加工したものでしかない。きみのいうように、そこにある自由は人間の自由というか、きまま、自儘でしかないね。活け花なんかとは根本的にちがってる。
    活字になれてしまった日本人が、文はまっすぐ書くもの、文字はおなじ大きさで書くものと、工業化のために妥協したところをあたりまえだと信じて、こどもたちが罫線のすきまを、器用に活字のような文字でうめてノートをとる。ぼくはこれも気になるんだ。文字を書くことは身体的な行為なのに。
    シブヤで壁にペイントしてる不良青年が、あれで気がまぎれるのは正常な気がする。まさに、あれは「書」なんだよ。おそらく絵画というより書に近いと思う。
    呼びあう、ということが、伝統だけでなく、ぼくたちの身体が含みもっていることの証明じゃないだろうか?

    確かに、昔の人の書いた墨の濃淡のリズムをもった手紙なんか、なんて書いてあるか、読めない、
    字を読む、書くということにも、ずいぶん逸脱のゆらぎの感性があたりまえにあった、その書を使ってコミュニケ-ションを使ってた時代にくらべれば、読む書くと言う行為に衰えと、安易さが、巣食っている気がする、今とはちがう世界が見えていたはずだ

    鋳造ということで、よそから運ばれてきたものが、使われることと、その土の匂い、風景の切れ端なんか、どことなくそういうものが記憶にひっかかって、つくられていくものと、砕かれて均質化したもののイメージでは、全然ちがう、イメージの質が変わってしまった、その地場地産ということ、コンクリート-人工石、型、コンビニ、自動販売機、
    うん、とりあえず肉食ったことあるやつには、自分の手で、鶏でも牛でも豚でも、殺して、それを自分で食べるということを、一度は必ずやるという義務教育を始めるだけで、ずいぶん世界は変わるのではないか、そういうところから

    屠場

    以前、福士さんに学校教育で東京都の屠場を見学させたらいいと進めたことがある。(笑)
    ネパールでいまごろだったと思うよ。お祭りをやっていて、街中にある祭壇に生贄が捧げられるんだ。ぼくはそのときカトマンズにいたのだけど、角をまがるたびに牛、山羊、こっちでも山羊……と生贄の儀式にでくわして、見たくもないのに見てしまった。
    大きな牛が連れてこられて、山刀を持った男がスタスタときて、牛の首を押さえてもろに切り落としはじめたんだ。あたりはすごい血の海! もちろん血の臭い。角をまがったら、こんどは山羊。血の量はぐっとすくないけど、生きてるまま首をぐりぐり切り落とすグロテスクさはおなじ。
    そして生首が祭壇に飾られるんだ。血をしたたらせたまま。
    古代の話みたいだけど、カトマンズの普通のお祭りだった。ことしもやってると思うな。

    ボーイスカウトの人で、鳥をさばいたのが、トラウマで鳥を食べられなくなった人の話を聞いて、適切な場と人に教えられるように、体験することが大切だなと、鳥は食えないけど、マックは食えるボーイスカウトではまったく意味がない、殺して食べることの意味を体現して生きている人が、それを伝える、そういう生きている人こそが本当の意味での教師になりえる一瞬があるのかもしれない、もしくは大人ということかも、そういうことが学校教育みたいなことにあったら、すばらしい社会みたいなものかもしれない、なんだか部族みたいだけど

    クレヨン

    学校教育のなかの多くが疑似体験でしかない。擬似的な体験を教育といってる、ぼくはそこに限界を感じてる。
    せめて親はホンモノの体験をさせるべきだよね。教師にはとりきれない責任も、親にはとれるのだから。ぼくに子どもがいたら、怪我の危険があっても木にのぼりたい子は木にのぼらせる。そうして視界がひらける経験って、何にも換えがたいから。

    学校教育からすべての擬似的なものを払拭したい。

    なぜならそれは「子どもじみてる」からだ。
    子どもじみたことで、子どもは育たない……気がする。

    子どもがいないから大きなことはいえないが。

    生きることの学びの時間が一番大切ですよね、
    家庭科とかじゃなくて、生きることの学び、食べること
    生きることの為の勉強という風になれば、
    勉強自体も生きたものになってくる、
    箱の中に閉じた学問なんて、まったくおもしろくない
    そういう生きた人からしか、大切なものは受け継がれない

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