Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2007-08-21 純情の衝突-conflict of pure hearts

    日韓現代美術交流展
    「純情の衝突2007-conflict of pure hearts」

    2007年9月1日(土)~9月14日(金)
    11:30~19:00

    場所:BankART Studio NYK (横浜市)
    〒231-0002 横浜市中区海岸通3-9

    入場料:300円

    シンポジウム

    2007年9月1日(土)17時30分より
    テーマ:「日本と韓国 接点の物語」
    (主にグループワーク作品について日韓の作家が、
    プレゼンテーションとディスカッションを行ないます)
     
    2007年9月2日(日)15時より
    テーマ:「日本と韓国 接点の物語」
    (主に個人作品について日韓の作家が、
    プレゼンテーションとディスカッションを行ないます)

    (両日ともシンポジウムのオープニングに
    太陽をテーマにした共同作品の舞台で
    韓国人作曲家のコンサートがあります)

    オープニングパーティ
    2007年9月1日(土)19時30分より

    ワンドリンクがサービスで日韓の軽食が出される予定です


    conflict_chirashi-2.jpg


    ura.jpg



    ゴッホなどに象徴される芸術家という、特別化された存在は
    個の確立とともに、その時代の最も刺激的な存在確立だったと思われる、
    しかし、芸術が生活から遊離し、ある限られた人だけの興味の対象になり
    芸術とはわからないという言葉で語られることが多くなった現在、
    その芸術家-アーティストという語られかたはもうよいのではないかという想いが生まれてくる

    そんな時、古来日本には芸術という言葉はなく職人としての表現者達だけがいたことが思い出される
    その生活の需要という、スペースにおいてこそ自由になれる場(ニッチ)があったのではないか、
    現在において、その職人としての表現者こそが最も刺激的かつおもしろい存在なのではないか、

    そんな想いを抱いたまま、
    日韓国際交流展第二回「純情の衝突-conflict of pure hearts」において、
    「日本と韓国 接点の物語」をテーマに個人制作とグループワークを行なう中、

    浮世絵などの職人に見られる「分業制」による制作集団「くみひも工房」を設立するに至った

    どのようなイメージを具現化してほしいかと、「日本と韓国 接点の物語」のエピソードを、
    アンケートリサーチによって集め、

    それをヒントに自分の体験と響きあうものをイメージした
    制作の責任者-頭領がメンバーの特技に合わせて分担し、制作を行なう方法をとった

    アンケートリサーチの結果「韓国やアジア諸国の市の活気」というキーワードを得、
    それを体現するマーケット・インスタレーションによって、
    制作された作品は付随する物語とともに会場にて販売する

    購入するための手段として、
    通常の貨幣、物々交換、会場に置かれたアンケート用紙に観客が「物語」を書き込むことでそれが通貨となる地域通貨など、多様な貨幣制度によって行なわれます。

    より詳しくは、制作ブログにて、
    d012086220070802210701.jpg




    5日、10日、14日の朝から会場にいる予定です
    会場にいる日が増えたら、ここに書き込みます




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    コメント

    アーティスト

    詩人という単語が何の役にもたたないように、
    芸術家という用語にもともと中身はなかったと思う。

    ところが他者を詩人と呼び、芸術家と呼ぶことには
    ちゃんと意味があるとぼくは思うんだ。

    ひたむきに走りきった人間とその作品にあこがれるとき、
    ぼくは躊躇なくひとを詩人と呼び、芸術家と呼べる。

    自分で詩人だとか作家だとかいうひとが
    バカに見えるのはそのせいだろうと思ってる。

    ここにある一連のサムネイルを見て、
    杉原作品はいちばん想像に難いことをしてる。

    突っ走る杉原信幸をぼくは芸術家といって
    なんら後ろめたい気持ちはないが、

    いい気になっては困るから
    もっとも馬鹿げた作品だとでもいっておこうかな。(笑)

    そう、どう呼ばれてもいいんですよ、僕は
    ただ、自分自身が生きるということはそういう呼ばれ方におさまっていない、そういう言葉の括りを常に越えでていくものだと想っています

    ちなみにokabeさんのアンケートが共同制作のメインエピソードになったので、よろしければ、会場にて作品をなにか一つプレゼントします

    エピソード

    ほんと!? うつぼ舟がほしい! 
    でも設置場所が難しいから無期限延期。(笑)

    きみがいるときに行けたら嬉しいな。

    そうそう、
    ぼくも登山家やスピード狂のように誰よりも遠くと思ってる。
    でもその「誰」というのが横にならんだ人ではなく、
    人類全体のような人が知覚できるもののすべてのような、
    そんな意識かなぁ。

    自分のこととしていえば、ぼくはスピード狂でいたかった。

    芸術家という呼称の弊害は、
    そう呼ばれるとその範囲に安住しちゃう人がたまにいること。
    芸術家と呼ばれることがゴールになってる作者が不幸にしている。
    最初はちがっていたのかもしれないけどね。

    ま、それはともかく
    うつぼ舟にはこの展示会で会えるの?
    ぼくはまた体験したくてしかたない。

    ほんとは家にあって、
    まるで庭石の苔を育てるように朝夕ちゃんと水をやって大事にして、
    ふかふかの苔にしてきみを驚かせたいのだ。(笑)

    「夜の絵」にもまだ行けてない。
    今週の金曜日まであるかなぁ。

    動物園

    あ、きょうは一日中、上野動物園にいます。
    いっぴきのサルとして。

    ぼくは時々、あそこで惨めな動物にすぎない自分を感じたり、
    囚われた動物の顔をみたりすることが自分をごまかすために必要なんです。

    芸大の展示もずっと見たいのだけど、
    どういうわけか集中力がちがうのでいちどにひとつのことしかできないんです。

    若冲や卒業生の自画像も見たいのだけど……

    夜の展示行ってきたよ。
    店に杉原君が染み付いてる感じがいい。

    お酒を飲んで、終電めがけて走ったら、
    転んで思い切りひざ小僧とひじをすりむいたよ。
    あんなに激しく転んだのは、いつごろだろう。
    びっくりした。

    交流展、アンケート思いつかずに返信できなかったけど、
    どんなんだろう。楽しみにしているよ。

    okabeさん、ちょうど、中沢厚の「石に宿るもの」の中の、中沢新一の解説で、子どもの石投げについて、野生というものは、スピードを伴っていて、石投げにはスピードをコントロールする方法を身につけるという意味が含まれるのではないかというのと、
    諏訪の御柱祭の木落としの命がけの危険を伴った祭りのイメージと重なります
    うつぼ舟は現在、長野に展示設営中です
    なので、長野で体験できる予定です
    都合の良い時、きのこ採りの時期にでもぜひ遊びに来てください
    横浜の展示には石の作品が出る予定です
    うつぼ舟の展示場所が確保されたら
    okabeさんにもらってもらって
    大切にしてもらえるのが一番よいですね

    yamauchiさん、展示来てくれてありがとう
    怪我だいじょぶですか、
    僕は保育園の時
    転んで、擦りむいた記憶があるよ

    保育園かぁ。
    そういえば、小学生くらいからはあまり転ばなくなるものかね。
    思い切り転ぶ子だったんで、かさぶたが懐かしい。

    やんちゃだ。

    うつぼ舟

    一点ものにしないで、設計図+監修してもらえたら、現場でこつこつ作ります。土地に土を盛るところからはじめる。場所はあるけど、問題はやぶ蚊かな。(笑)
    バイクをすこし大きくしました。スピードはないけど、800CCあるから壊れないで長距離を一気に走れます。
    スピードのなかに身をおいたら集中できるかなl。このところ精神的な追い込みかたというか、対象にむかってのびる枝や根のようなものが伸びてこない。
    木にとって根や枝が伸びるということは、人が水平に移動するのとおなじ意味を持つんじゃないかとずっと思ってる。人は木が移動しないと勝手に思ってるけど、枝や根をはることが、かれらの移動なんじゃないかって気がするんだ。かれらも旅をしてるのだと思う。そんなふうに精神的に対象に向かいたいと思ってはいるのだが、どうも枝や根がのびない。
    なにもかもやめたくなる。

    場所はどこにあるんですか、
    改良点が見つかっているから、いろんな場所に
    少しずつ違う形のものを作るは良いかもしれない
    蚊は蚊取り線香を焚けばよいし、
    ぜひやってみたいですね

    きっと枝や根がはるには、よい土や光がないと
    木は環境から枝や根をはることでしか、移動できないけれど、人はふいっと
    旅に出れば、違う空気や光や森にも会える
    その記憶の土壌のようなものの中に枝や根を伸ばすことができるかもしれない

    そう言いながら、僕は、この環境における自らの澱みから逃げ出したい気持ちでいっぱいですね
    美術展なるものと、まったくぼくのやりたいことは違う
    どこまで、アートと関係のないところでモノを
    つくれるのかということ、
    その場を見つけだす
    とにかく緑のなかで暮し、作ることだと思います

    場所

    山口市の祖父が仕事場にしていた家の庭。中原さんちも近いです。(笑) メインテナンスを考えると、家の庭が最適だと思います。田んぼのなかにポツンとあった敷地なのに、いまは周囲のほうが街になってしまった。
    > 記憶の土壌のようなもの
    長距離を走れるバイクを手に入れたら、ちょっと気持ちが落ち着きました。機械だけど、ぼくに必要な土壌までの架け橋になってるみたい。その気になれば行ける――そう思うと落ち着きます。仕事を減らしても、やらなければならないことをするべきだと思えるようになった。ほんとうは、なにもかも捨てて歩くべきなんだ。どこへ行くにも、無言でただ歩けば、ほとんどのことは解決する。それはわかってるのに、それができない。
    能力や才能はとうに見限ってるけど、集中力のある状態には自分をおいておきたい。なにもない場所で自分を追いつめたい。そんなとき対峙できる作品とだけ向き合いたい。
    そう思うと、だんだんひとに会えなくなるんだ。本を読んだり勉強できるのはそういう時期だけど、それでは仕事にならないね。
    もうなかばそれでもいいと思いはじめてるのだけど……。

    南極にも生えるというギンゴケが最適と思います
    よくアスファルトに生えてるやつ
    乾燥に強くメンテナンスが楽です
    スナゴケとギンゴケは屋上緑化にも使われてるので、

    庭の空き地性というのはとても大切ですね
    それが失われない端っこの木の下とかなら良いですね

    僕も歩いて旅を考えています
    都市生活は限り無くつまらないので、
    地方を旅して、絵を描いたり、彫刻したり
    托鉢みたいにして
    狩りしたり、漁したりして食べていけたら良いと思っています
    その蓄積を都市に投げつけ、都市を変えていくようにしないと、こっちがまいってしまう
    いかにして、都市という異常空間と関わっていくのかという、距離感が必要ですよね、
    節のない空間、時間の生活は
    とても生命を鈍らせます

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