Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

  • experience (12)
  • news (60)
  • exhibition (31)
  • word (47)
  • essay (4)
  • film (4)
  • review (30)
  • journey (59)
  • photograph (6)
  • performance (10)
  • architecture (2)
  • book (2)
  • workshop (13)
  • review&journey (1)
  • memo (2)
  • livepaint (0)
  • 最近の記事

    最近のコメント

    最近のトラックバック

        -------- スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

        2006-11-28 取手アートプロジェクト「一人前のいたずら―仕掛けられた取手」

    友人の淺井裕介の作品がおもしろいらしいという話を聞いて、
    アート展みたいなものに今あまり興味がもてないが、最終日に行く

    旧終末処理場は7時までで、他の場所は5時くらいに終わるという情報を知らなかったので、
    旧終末処理場しか見れなかった、ここらへんの告知ももう少しちゃんとしてほしかった


    宮ノ前ふれあい公園

    なんにもない公園、けっこう気持のいい場所だ

    藤本由紀夫

    ワークショップで作られたオランダの有名なデザイナーの赤い椅子が原っぱに
    たくさん置かれている、ここにこれが置いてある必然性をまったく感じ得ない


    旧戸頭終末処理場

    聖火マラソンして竹のたいまつの先の土人形が焼ける作品
    それ自体はけっこうおもしろいが、展示の仕方が棚つくって置きましたって感じが
    すごいださかった、
    パフォーマンスの意味とあった展示方法、
    場があればいいのに

    地中の水槽に映る白っぽい鯉の泳ぐ光をマスク越しに覗く作品
    幻想的な感じ

    淀川テクニック「大王鬼神」

    柵で入れないが、
    河原の土手のような丈の高い草むらをたおしてつくった道に曲がった鉄パイプが何本もささっている
    奥にゴミで出来た大きな像が立っている、
    何本ものまがった鉄の棒と草むらのつくる空間がおもしろい
    鉄の棒の先には野球のグローブなどがついている

    大王鬼神の像をひき倒すイベント、
    イラクのフセイン像をひき倒す映像が祭りに見えたというところから、
    発想されたらしい、
    淀川テクニックの二人がドラム缶の太鼓を叩き、
    最初5人のアーティスト仲間がサクラ的に引っ張り、
    倒れないので、観客も一緒にひき倒す、
    こういう祭り的なものの可能性には非常に興味があるが、
    観客とともに引っ張ると、すぐに倒れてしまったので、
    それほど盛り上がらなかった、
    倒れるように作っていたからだろうが、
    ここらへんの微妙な調節が本物の祭りの伝統的に培われた
    面白みとの違いなんだろう


    奥村昂子

    部屋自体と部屋にあるものがすべてアルミホイルで被われている
    窓もすべて被われているため、
    なにか時間の止まるような内閉性、
    雪原の静寂のようなものか、霧の中にあるようなものか、
    惑いを感じる
    すべてのものが反射質のもので均一化された世界なので、
    物が置かれるということの意味が
    見えてくる非常におもしろい空間だった


    理科室みたいな暗い部屋に奥から照明が照らされ
    沢山の細いチューブの先からポタポタ水が垂れ、揺れている、
    それを受ける穴がある
    ガラス張りのケースの中にもひとつチューブがあって水が垂れている
    そのケースの中に置かれているものの、物の存在感、置かれていることが
    印象的だった
    場自体がもっている力だが、それをとりこんでいる


    最終日のイベント中はエアレーションタンク内に入れないということが事前に
    告知しきれていないので、不満をもった人も多かっただろう
    しかもイベント自体も満員で入れず、途中から舞台が半分しか見えなくてもよければ、
    ということでチケット販売していたのも問題ある

    イベント終了後1時間くらい待てば入れるというが、
    もう他のところは見終わっていたので、
    知人なので見せてくれと頼むと、
    電気が消えていてもよければというので、
    頼んで入れてもらう、

    淺井裕介《Fu-ka drawing》

    薄暗いエアレーションタンク内に
    洞窟画のような静けさの漂う白い線で描かれた植物や動物が浮かび上がり、
    床には壁の汚れを落とした残りカスで描かれた黒い生物が一匹、
    遺跡の静寂のような雰囲気、
    壁の汚れを軍手で落として消して描いた壁画、

    ずっと見ていると、係りの人がもう用事があって戻らないといけないから、
    イベント終了後に見てくれと言うので、しぶしぶ従う、

    tapasai22s.jpg


    イベントで使う電力確保の為に電気を落としているのと
    イベントが見えてしまうから閉鎖ということだった、

    イベント終了後、再び見る
    今度は照明が少し明るすぎる気がした

    でも昼間に自然光で見たらまた印象がちがったのかもしれない




    池田拓馬

    四面ドアだけの三層の塔のような作品、
    外見はおもしろく興味をひくが、中に入るとなにもない
    空っぽ感が出ていればそれはそれでいいと思うが、
    ただの手作り感が見えてしまうのでがっかり

    あと鉄板に張られた写真の作品、

    聴診器をたくさん張りつけたスーツを着て、
    心音をスピーカーで流すパフォーマ-、

    自動でうごく巨大な球体と動物人形とたわむれるきぐるみ着た人、

    など、場にあった作品が幾つもあった

    ヤノベケンジのミッキー武者みたいなのは場にはあっていたが、
    さしてどうってことない


    石塚つばさ

    青白い円状の光が部屋の奥に浮かびあがり
    その中心に煙が吹き出ているように見える、
    紐があって近くに寄れないので、
    どうなってるかわからない
    不思議な感じ、
    作者らしき人がいたので、話を聞くと
    部屋の窪みの空間に隣の部屋からドライアイスの煙をパイプで送って
    そのパイプの部分だけ煙りがあがって見える
    作者の人が近寄って見せてくれたが、
    人が近づくと風で窪みに充満している煙が揺らぐ
    最初はもう少し近くまで寄れたが、
    安全上この距離にしたらしい、
    静寂のようすもいいが、
    人が寄って煙が揺らぐのもおもしろい
    近寄れなくしたのはちょっともったいないけど、
    近づいたらネタがばれるかもしれないから、これでいいのかもしれない




    スポンサーサイト

        2006-11-27 内にある外 Interactive Image

    「表層の内側3」関連企画

    東京芸術大学院美術研究科絵画専攻油画第4研究室
    大邱カトリック大学大学院絵画科西洋画専攻

    東京芸術大学音楽学部校内大学会館2階展示室

    2006年11月13日(月)~11月17日(金)
    10:00~19:00 最終日10:00~17:00

    佐々木浩一
    井上新之介
    臼井民江
    沢上舞子
    正木聖子
    内海大輔
    中北紘子
    野依幸治
    森康志
    亀井友緒
    杉原信幸
    塚本智也
    稲垣栄理子
    大矢加奈子
    山本晃
    山本久美子

    Song Jung Duk
    Kim Sun Ock
    Ryoo Jae Min
    Hwang Jin Hee
    Hwang Jae Sen
    Seo Young Ji
    Lee Jee Young
    Moon Hye Young
    Jeung Won
    Hwang Jung Hwa
    Moon Hye Rin
    Kim Nak Hyun
    Moon Dong Bae
    Park Kyung soo
    Pack Yong Yung
    Lee So Jin


    -互いの国にある相手の国の文化に関連しているものをモチーフに制作した企画展-


    音楽学部に入ってすぐ右手の木の下に
    空間をつくっています
    上野の森に
    野焼きした焔の色の土器の家を
    建てます

    (18日、19日の土日しか来れない人がいたら早めに連絡をもらえたら、
    野外の作品なので撤去前に見ることができます)

    tann.jpg


    IMG_0077a.jpg


    IMG_0102a.jpg


    IMG_0101a.jpg


    「堂(タン)/エロティックな美術館」
    野焼き粘土、竹、紐、材木


    IMG_0056a.jpg


    「土人」
    粘土、素焼き


    IMG_0058a.jpg


    IMG_0060a.jpg


    「静かな性」
    竹、藁











      
     


    続きを読む »

        2006-11-25 ビル・ヴィオラ「はつゆめ」

    森美術館

    映像のインスタレーション(設置)に関する幅と
    映像自体の可能性の幅を見た感じ、

    宗教的でもある、笑いもある

    五天使の映像、印象的な美しい映像だった

    写真のような、まばたきする長スローな映像
    洪水のような放水を浴びる人達
    何層にもなった薄布のスクリーンにうつしだされる夜の森の映像
    スポットの下で頭に直接囁きかけるような音

    火は合成でがっかりだが
    水はうつくしい

    コンピューターで安易に加工するのでなく純粋に映像の力で
    勝負しているようなところは共感できる

    高層ビル上の教会のような

    おもしろかったが
    あの森ビルという場所性には
    まいってしまう

        2006-11-19 皆野、大塚古墳、上長瀞、金崎古墳、秩父、今宮神社

    急に浴びたくなって、
    秩父の古墳に行っていた、
    終点の西武秩父駅から歩いて御花畑駅で乗り換えて、
    皆野駅から国道沿い南に1キロ、大塚古墳、
    夕暮れの黄金色に輝く時間、木々が生い茂る石窟古墳

    IMG_0032a.jpg


    上長瀞、駅すぐの国道沿い氷屋さんのちょっと先を右折、
    畑の中に大堺2号、その向かいに1号、
    行ってみると、古墳が半分陥没して潰れていて、
    落盤の危険の為ビニールシートと柵で塞がれている、
    ビニールシートを開けて中を覗く、

    IMG_0034a.jpg

    (これはフラッシュをたいて撮っているので、こんな風には見えません、古墳に行く際は懐中電灯を持っていきましょう、電灯がつくところもあるけど)


    1号は石窟は無い


    ちょっと先、標識に従っていくと、民家脇に3号、
    古墳の上に支石墓のような、石の祭壇があって、
    丸石とくの字の石が置かれている


    金崎神社、
    天神塚古墳、スリットのような古墳、

    IMG_0046a.jpg


    IMG_0042a.jpg



    日が暮れてきて、通り道の山に、神社への登り口があったので、
    登っていく、
    途中工事現場にあるようなほっ建て小屋があったが、
    朽ちていて、恐い、
    こういう場所では、人の気配のほうが恐ろしい

    小さな社のある場所についたときは、
    もう微かな夕陽が空の端にあるだけで、
    山の中は鬱蒼として、暗い

    山を降りると辺りは真っ暗、
    駅で電車を待つ間、
    上長瀞駅の看板を眺めながら、
    なんとなく、ここには来たことがあったような気がした、
    もちろん始めて来たと思うんだけど

    御花畑駅へ、秩父神社、徒歩7分の看板を来る時見かけていたので、
    地図を見て向かう、
    途中、今宮神社という、大木が地図に載っている神社もあったので、
    そっちに寄ってから行く、

    今宮神社、
    暗くてよくわからないが池がある、湧き水らしい
    神社らしくない空き地のような敷地に、
    巨大なケヤキの巨木が立っている、
    こんな大きな木はあまり見たことがない、すばらしい

    神社の建物自体は小さい、ケヤキの巨木のほうが
    大きいくらいだ、このバランスはすばらしい、

    秩父神社のあるほうに抜ける為に、
    棘付きの金網を乗り越えて路地に出ると、
    犬を連れたおばさんに声をかけられる

    そこの神社の宮司さんで、ここはほんとうは通っては行けないんですよ、と
    それからしばらく立ち話をする、今宮神社のことをいろいろ聞く、
    女の宮司で神社を護っていくのが大変だとか、
    おじいさんも宮司で、長瀞という地名はそのおじいさんがつけたとか、
    それから、名前を杉原と名乗ると、
    杉だと諏訪のあたりの生まれではないかと、
    それを聞いて、へー、長野の生まれなんですよ、
    杉は諏訪なのか、諏訪大社ともこの神社はつながりがあって
    諏訪大社の宮司がそろってお参りにくるらしい、
    水を治めるものの話、
    そうやって話していると、
    そのおばさんはあなたとは出会ったことがあるような気がすると言い、
    なにかの縁で出会って、
    こういう風に立ち話することも、
    私は『祭(マツリ)』だと思っている
    と言った、それはとてもうれしい言葉だった


    秩父神社、
    りっぱな神社
    諏訪大社の御柱と同じようなものが立っている

        2006-11-19 サスティナブルアートプロジェクト「言の問え」

    平櫛田中邸

    名前忘れた、
    レンズを覗くと庭の自然のアップや建物の細部が見える作品、
    けっこうおもしろい

    池田嘉人、
    畳の部屋の畳みをモニターの形に切り抜いて、モニターを埋め込み、
    飛行機から撮ったと思われる雲の映像が流れつづける、
    畳の下に流れる雲の映像の浮遊感がなんかおもしろい
    これは好きだった

    保科豊巳、
    薄暗い和室の奥に
    滝の映像をモニターを縦に使い、それを反転させ流している
    まるで、ものすごい早さで、煙りが昇っていくようで、
    魂が昇っているようにも見える、
    反対の壁にはおそらく太陽の白黒反転した映像があり、
    カラスの鳴き声がする、

    カラスの鳴き声がうるさいのと、
    滝の映像の埋め込みの壁のベニヤの加工が雑なことを除けばおもしろかった

    あと他の場所のは印象に残っていない

        2006-11-12 内藤礼「返礼」、佐久島

    弁天サロン庭に張られた二本の紐に小さな木製の洗濯鋏でとめられた、
    うす紫色の細長い半透明な薄い布がニ本、風にゆられている、

    風が見えれば、なにもつくらなくてもいいかもしれない、
    貝紫染めで殺した貝が色として生きはじめることを精霊と、
    昔の人は呼んでいたのではないか、という内藤さんのうつくしく感動的な話しを聞きながら
    眺めていたが、
    本当に精霊の紫のように生きた色として見え始めた
    そこには言霊の力もたしかに働いていたような気がする

    動きはひじょうにうつくしく、不思議な精霊のようだった
    風は止まず、絶えず動きつづける半透明のうす紫色の布の動きをずっと眺めていた

    貝紫染めは、貝を割って、その毒(紫の補色の黄色をしている)をとりだして、海水で洗い上げて紫色に染める

    庭に出て、近づいて見る、二本のうち、奥のほうにある半透明の紫色は、言霊の力には関係なく、本当にうつくしい、生きているような色だった、しかしその布の素材の波打ちかたに、違和感を覚える


    野外作品鑑賞「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」
    内藤さんと中沢さんとともに島の道を歩く、
    防波堤のある海辺の道に出てしばらくいくと浜辺におりる、
    波打ち際の岩場の上に白い樋がすこしだけ曲がりながら、海へ向かって立っている、

    この時、中沢新一さんと話していたのと、人が多かったので、あまり作品と向き合えなかった、
    一人ずつ樋の水に息を吹き掛けるのだが、
    どうもたくさんの人が見ている中では、やる気にならない、
    これは、だれもいない海辺で、一人でやって来て、吹き掛けるべきものだ、と
    感じた、
    だから皆が帰り始めてから、最後に一人残って、作品と向き合おうとするが、
    係りのおばさんに早く来てください、帰りの舟に間に合わなくなる人がいるので、
    帰るまでが、作品鑑賞なので、もしここであなたが怪我をしたら責任とれないから、と
    言うので、
    しぶしぶ、また一人で来ればいいか、と息を吹き掛けず帰る、












    弁天サロン内、二階の屋根裏のような展示室、階段を登って部屋に入るとまず部屋の真ん中くらいに梁があってその裏側に背の高い総ガラスのケースが置かれていて、
    中に球状の白糸の束、半透明の薄い布でできた小さな枕が見える、
    その背のような場所の置かれかたがおもしろい、
    夕暮れで、蛍光灯がついていて、たぶん図版で見たことがある死者のための枕だと思われるものが、
    暗闇から浮かび上がるように半透明のうつくしい光を放っていた

    低い梁をくぐって表側から見ると、発掘品の土器の欠片や化石とともに糸を結ばれた土の器(舟)、球状の糸の束、貝紫染の紫の点が幾つもついた布が重ねられたもの、半透明の小さな枕が絶妙の位置、そこにあることの位置の確かさを秘めて置かれている

    その後ろの壁側には事務用の灰色の棚の展示ケースがあって
    発掘品の土器の置かれている中、白い布を敷きつめた上に糸を結んだ土の舟がたくさん置いてある仕切りが二箇所ある、そちらの土の舟は沈んでいてあまり見えてこない、

    その壁の裏側にも展示スペースがあるが、電気がついておらず、常設展示品のみだと思われる、
    もうひと部屋の机と椅子が置かれているほうにも、なにも作品は無いようだ、


    次の日の朝、弁天島、八劔神社、寺などを見てまわる、
    松岡徹の作品は古墳ぽいのや、韓国の塚っぽいのがあるが、
    作品のキャラクターの形体が好きになれない、
    作家の汚いもの、エゴですらないものか、

    弁天サロン、
    内藤さん達が、貝紫染めをするのに、貝殻を割って貝の黒い部分をカミソリで裂いて黄色い毒の部分を集める作業を手伝わしてもらう、

    もう一度、自然光で弁天サロン二階の作品を見ると、
    今度は、半透明の枕は落ち着いていて、
    壁側の糸を結んだ土の舟達がたちあがって見えてくる、
    むしろ発掘された土器よりもうつくしいような存在感を放っている土の器の自然光の光と陰、
    こんなにも光りによって違って見えるとは、

    この時、
    自然光は自然につくられたものをうつくしく見せ、
    人工照明というのは、人工物(というより機械工物)をうつくしく見せるのではないかという、
    見方がたちあがる、これはちょっとした発見だった

    もう一度、一人で野外作品「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」を見に行く、

    一人、海辺の波打ち際に立つ白い樋を眺め、
    打ち寄せる波の音と波の動きを視界にいれながら、海に向かって、
    白い樋に入った水に息を吹きかけると、
    その水の震えは、精霊がひかえめにダンスを踊るようにうつくしい振動をおこした

    波の激しい力と樋の上の小さな水の震え、そのイメージはあまりにすばらしい
    ただ、この精霊のようにうつくしい水をいれる器が、
    白い焼き付け塗装のステンレス製であることが、
    京都の美術館内での展示の樋の作品の時は気にならなかったが、
    この海のことを知らない形体と素材は、
    海のテリトリーにおいて、精霊の器としてがっかり感は否めなかった
    美術館という家のテリトリーにおいて、ステンレス、鉄は主張しない普通のものとして存在するが、
    海という自然と自然光のテリトリーにおいて、それは逆に主張が強すぎるのではないか、
    これをたとえば、木か石か、それとも、この場所を知っている、海を知っている内藤さん自身がステンレスでも手をつかって形体をつくったならば、非常に深い感動を憶えただろうと思う、
    内藤礼さんは、そういう意味では都市の巫女なのだ、
    それは弁天サロンの庭に吊り下げられたリボンにも言える、貝紫染めの精霊の紫はあまりにうつくしいのだが、その寄り代としての、市販のリボンはやはり形体として、機械製品の単調さを伝えてしまう、そしてそれが自然光のなかではあらわになってしまう、

    それは都市においては自然なことであっても、佐久島という場においては、不自然なものとして、
    佐久島にあるべきものとして見えてことない、

    内藤さんのいう、普通のなんでもないものが、神聖なものに変わる瞬間が見たいというのも、わかるけど、やはり内藤さんが手で織った布が貝紫染めで染められたものが、究極的にはうつくしいだろうということを想うと、それを見たいと想ってしまうのである
    特に野外という自然のテリトリーにおいては、

    そのことを内藤さんに感想として告げると、
    機械工物には生命の振動のようなものが宿らないのではないか、という僕の意見に、
    ほんとにそうですか、という問をお返しに投げかけられた、
    これは僕にとってもひじょうに問題であるところである、





    平田五郎さんの「大葉邸」の鍵を借り、見に行く、
    漆喰でできた白い部屋、平田五郎さんのゼミの時、佐久島のパンフレットを見せてもらって、
    行きたいと思っていたところで、平田五郎さんは好きな作家だ

    石の庭に入ったスリットの水路、
    庭側から白い部屋がアクリルボード越しに見える、
    鍵を開けて屋内にはいると中は暗く、
    奥にいくと、窓からの柔らかな色の光が見える
    さらに奥へ行くと、白い漆喰の部屋がアクリルボード越しに見える、
    竈の部分にもガラスの作品が置いてあるようだが、暗くて見えない、
    電気が切れているようだ、
    帰ってから、係りの人に聞くが、切れてるみたいですね、と迅速な対応がまるでない、
    あきらかに、管理者に問題があると思われる、
    直島の内藤さんの「きんざ」が島の人に護られていっているのと対照的な、
    「大葉邸」であった、出来た当事は美しかっただろうが、
    うちすてられた感があった、やはりアクリルボード越しではつまらないし、
    作品が暗くて見えないというのもひどい状態だ


    島の神社や寺を巡る、

    山の神塚古墳、向かいの森は沖縄の森に近い神聖な静けさを保っていた、
    柵がついて中にははいれない、

    島を縦に横断するような道は、地図には書いてあるが、草が生い茂っている、
    しかし古墳や神社を探して、掻き分け進む、
    人があまり来ない森の小道には、静けさと揺らめく木漏れ日のうつくしい域がある、
    草の実をいっぱい張りつけながら、島を歩く、

    神社を探して、みかんの果樹園にいたおじいさんに道を尋ねる、
    高い石垣に囲われた神社を見て、戻ってくると、おじいさんがみかんでも食べてけ、と
    3つばかりうまそうなの選んで、くれる、
    無農薬だから形は悪いけど、と
    水を忘れて、ちょうど喉が渇いていたので、
    すっごい甘くてうまかった、ありがとうございますと言って、
    また来てな、とおじいさん、こういうのはすごくうれしい

    他のアート作品はほとんどつまらなかった、カモメの看板がいっぱい立ってるのとか、
    浜辺の昼寝用のボックスとか
















    しかし、内藤さんの弁天サロンの庭の作品は、
    朝、係りの人が紐に吊り、夜にはしまう、
    まるで洗濯する人のように、
    おそらく、直島における体験
    島の人に作品をゆだね、
    護っていってもらうという体験から生まれた
    感覚からめばえていっているものだろうけど、
    その人々の生活にとけいって、
    うごいていく動作にまで
    作品というものが入っていっているというのは
    すごいことだとあらためて思う





        2006-11-09 野焼きと精霊と魔法と

    野焼きをして土の器に火の精霊の跡が焼きついた、

    内藤礼さんが貝紫染めで殺した貝が色として生きはじめることを、精霊と
    昔の人は呼んでいたのではないか、とすごくうつくしくこころに響くことを言っていたけれど、
    そんなかんじがした

    昔のひとが今の電気を見たら、魔法みたいと思うかしらと思っていたが、
    野で土の器を焼く焔とともにあることは、
    魔法としか思えない、
    縄文人は魔法とともに暮していたんだ、
    精霊とともにあること、
    生命と自然と接近して、そのうねりと一体化して生きることが
    どれだけ歓びに満ち溢れたことか、
    縄文人はよろこびに満ちた生を送っていたという実感を得る

        2006-11-09 内藤礼×中沢新一“話と対話”

    内藤礼×中沢新一“話と対話”10月28日2時より、佐久島弁天サロンにて

    を聞きに、朝4時に起きて、電車で佐久島へ向かう
    11時30分の渡船で行こうと思っていたが、3分の乗継ぎを逃して、
    1時半の便で、着いたら即弁天サロンへ、内藤さんに会う、
    部屋は小さくて、定員50人ということだったが、廊下とかも使えば、
    もっと人は入れただろう、来たかった人多かったはずだ、
    それでも、野外作品の観賞のことを考えると、あれぐらいの人数が限界とも思える

    最初、中沢新一が一人で話す、
    聞いていると、それは違うんじゃないか、と突っ込みたくなる、
    がイベントの最後まで観客の意見を聞く時間は設けられなかった、
    なんとも、中沢新一には権威的な感じがする

    西洋の芸術は自然や環境から切り離されたところで成立していて、
    日本には明治まで芸術の概念はなく、あくまで職人だから、
    自然や雇い主の意見に制限されるが、それと折り合いをつけることで成立している、という
    西洋の芸術が自然や環境から切り離されて成立しているなんて、まったくよく言えたものだ、
    本当にすぐれた表現(芸術)が自然や環境から切り離されて存在するわけはない、
    それは西洋、東洋なんて関係がない、
    むしろ日本の表現のほうが、形式的、抽象的であって、
    中国の山水画と日本の水墨画や中国の仏像と日本の仏像を比べると、
    中国は自然から学ぶリアリティがあって、日本のは中国の模倣や抽象的な平面的な表現が見える、
    それでも、「松林図屏風」や「秋冬山水図」が自然から生まれ、それを超越するかのように存在しているのは、すぐれた表現(芸術)が日本にもあったということだ、
    しかしそれが芸術というくくりで呼ばれることがなかったのはなぜかということのほうが、問題だと思う、
    実際中沢新一も、北斎のようなすぐれた芸術家という呼び方をして、しかし絵師だったという、
    つまり現在の芸術という見方でみれば、日本にも芸術はあった、しかしそう呼ばれなかった、ということで、アートに訳として芸術と言う言葉が誕生した瞬間、
    日本においての芸術という言葉の内容が掬いあげられた、
    それはやっぱり西洋のものとは、少し違う、それは豊かな自然や湿度、地震、島国などの環境から生まれるものだろう、
    ヨーロッパにおいては印象派やルネッサンス以後の表現など自然は師だという感じがする、
    というか、自然や環境から切り離されて、表現が成立するわけがない、
    ラスコ-の壁画を例に出したが、牛の表現など、環境から生まれているんじゃないか、と聞くが、
    なんか三層くらいになっていて、暗闇から生まれた光があるらしい、それは見てみたい、

    その感じ、水煙型縄文土器に感じたもの、抗自然的なイメージにもつながるのかもしれない、
    だから、西洋、日本とかいう括りはまったく役に立たず、
    ただ日本には豊かで強力な自然があって、それと付き合ってきたし、付き合わざるを得なかったというだけで、ただそれだけなんだろう、だからそんな簡単な言語で語ってしまえない、複雑に入り組んだものを解きほぐすように語っていかないとならないだろう、

    聖フランチェスカや修道士やチベットの坊さんのような、自由を制限することで、宇宙と繋がるような、内藤さんの作品も野外の作品など、吹きかけることを求める、観客に制限を求めるなどとつなげるが、確かにきんざなども時間を決めて一人で見るなど観客にとっての制限があるが、
    その制限という言葉を本人達がつかうかというと疑問だし、
    ちょうど、佐久島に着く前にサリンジャーの「フラニ-とゾーイ-」を読み終え、
    フランチェスカについて、宗教と愛について、もっと自由でいいんだ、というイメージの解放を受取っていたので、
    ふつうエゴだと言われているものは、エゴでもなんでもなく、エミリーディキンソンが詩を書きたいという時の衝動もエゴだと否定できない、
    世の中のひとが自分の真のエゴに向かって生きればいい
    中沢新一も言っていたけど、職人の動き一つ一つが阿弥陀の動きになるようなものに、制限なんて、客観的、学者的、他人事的立ち位置の言葉が吐けることが、気に喰わない
    小説における自由は、それ以外選べないという状態であると、
    小説家の保坂和志が言っていたことが印象的だが、
    自由とはそういうものだろう

    内藤礼さんとの対談、
    内藤さんは感動的にうつくしいことを話していた、
    直島のきんざは、ほんとうはなにもなくてもいいんだけれど、
    そのなにものかの気配をわかるようにするために最小限ことをする、
    そのなにもなくてもいいという言葉の底の見えないイメージに僕は驚きを感じていた、

    貝紫染めの貝を殺して採った毒を使って染めたものが、色として生きはじめることが、
    昔のひとは精霊と呼んだのではないか、という内藤さんの言葉はあまりにもうつくしかった、

    内藤さんはうまくしゃべれなかったと言っていたが、ものすごく伝わったし、
    内藤さんは、深く刺激的な内容に向かっていくのに、
    中沢新一がするりと躱すような印象だった、

        2006-11-08 墓について

    墓ばかり見ている

    壱岐の古墳、
    慶州の古墳
    江華島のドルメン
    木人美術館の木人
    高句麗の古墳
    大湯環状列石


    思えば、昔枕木を垂直に立てた絵を描いていた
    それを墓のようだと描いた後に思っていた

    長野に建てた展示館も頭蓋骨を納める墓の家なのだろう

    墓でも、埋めてしまうのと、
    空間があるがある、

    墓に空間があるのは、蘇りや死後の世界のことを想って作られているのだろう

    沖縄の亀甲墓(女性器型)、壱岐の古墳(女性器型)、高句麗古墳
    大湯環状列石(男女混合、立石のストーンサークルと壷型の地下空間)

    埋めたて式は、どこか閉じ込める、
    蘇ってこないでくれというイメージがあるような気がする
    ドルメン、慶州の古墳、日本の墓(男性器型)

    韓国の墓は今でも古墳型で、燃やさず土葬だそうだ、
    日本の墓はストーンサークルから来ているのだろう

    フェルディナン・シュバルの理想宮も墓だ

    ‥‥‥‥‥‥、

        2006-11-08 美術解剖学、石川賢治さん講義

    写真は瞬間を切りとることが多いだろうけど、
    長時間露光の月光写真からは、ある一刻のような時間の堆積、
    震えのひかりを感じた、
    日差しが暮れていく、その時間のうつろい、一瞬ではなく一刻、
    その特別な時間に身を置いている時、そのかけがえのなさに
    立ち居降りている、

    満月に大自然の中に一人はいっていく、生理のような
    姿の過ごしかたには、潔いリズムと、
    その時を浴びた態が語ることがあるような気がする、

    月光はまぶしい、

    空が明るい写真より、うすぐらい、月の震えを伝える、
    花やメキシコの遺跡や波しぶきに月の光は焼きついていた

    最後の写真、月のアップの写真を見て、
    月は石なんだ、と
    直感が閃く、
    壱岐島で見た古墳の奥の巨石(僕は子宮石と呼んだが、鏡石と言うらしい)
    鏡石、まさに、神社の丸い鏡、
    再生を願う女性器形の古墳(大地と農作)
    潮の満ち干き、月、月光、石
    なんで月は光るんだろう、まぶしく
    月光は精霊や妖怪を呼ぶような光り、


    http://gekkouyoku.com/

        2006-11-04 釈迦堂遺跡博物館

    友人が朝、ひさしぶりに電話をかけてきて、どっか行こうと言うので、
    今日長野行くんだ、
    井戸尻遺跡でも行く?と聞くが、片道2900円かかるというと、
    行ってらっしゃい、と言うので、
    もう少し近い山梨の釈迦堂遺跡、片道1600円に行くことにする
    先日佐久島まで鈍行で行ったので、少々電車の一人旅に飽きていたのでちょうどよかった

    勝沼ぶどう郷駅、

    葡萄畑の丘を下って、
    まだなっている葡萄があったので、一粒もらう、
    ワイン用なのか、あまり見たことのないブドウだがうまかった

    駅前にはブドウ畑しかなく、食堂がないので、
    昼飯に途中のワインセンターのパン屋で、
    胡桃パンを買う、
    身がたっぷりとしてうまい

    道が草むした神社、龍の彫り物が生き生きとした形態でおもしろい

    大善寺、拝観料400円とられるが、本堂の屋根がひのき葺きでうつくしい
    住職の説明が長くてたるい、
    武田軍は赤い甲冑だという、
    寺の柱や仏像も赤い、
    赤と黒の縄文色とのつながりを想う、
    亀の形の石が飾られている、庫裡(坊さんの家)の庭から見つかったらしい

    芭蕉句碑、
    蛤の行ける甲斐あれ年の暮れ、芭蕉

    なんで山梨なのに、蛤なんだろうと聞くが、
    甲斐(貝)と蛤をかけた、それはわかるんだけど



    釈迦堂遺跡博物館、

    駅から徒歩一時間くらい
    高速道路、釈迦堂PAのすぐ上、

    水煙型土器、これが見たかったが、想っていたよりすごく大きい、
    たくさんの土偶は、青森県立美術館の「縄文と現代」に貸出され、そんなにたくさんはなかった
    「縄文と現代」はおもしろそうだ、内藤礼さんも出してる

    ほかにも水煙土器が幾つか、
    川の水流、洪水と関係ある形態なのかと想っていたけど、
    自然の形態というより、人間的な体内的な情念のうねり、
    反自然的と岡本太郎が言った呪術的なイメージ、
    異文明のように感じる、空間的なきびしさは火焔型土器のほうがある気がするが、
    宇宙にあるというダークマターを受信して現れるうねりが
    精神のうねりなのではないかというようなイメージが浮かぶ

    doki061.jpg








    説明書きに縄文時代、駿河湾から蛤がもちこまれていたというのを見て、
    江戸時代の芭蕉さんも生きた蛤見たんだと思ったが、
    特に大善寺で書いた俳句ではないらしい


    釈迦堂遺跡は埋められて釈迦堂パーキングエリアになっている、
    そういう場所の上に現代の施設が作られているということは、よくあることなんだろう、
    それはけっこうすごい感じだ、釈迦堂PAで釈迦堂ラーメンを食べて帰る、味は普通
    暗くなって、駅に着き、友人と別れ長野へ、








    釈迦堂遺跡の近くには釈迦堂という、石棒をまつる小さな社があって、
    ミシャグジをまつっていたらしい、行きそびれた、また行かないと、

        2006-11-04 飯綱、キノコ採り

    長野県

    飯綱、天狗の湯に家族と行く、おばあちゃんも一緒にキノコ採り、
    天狗の湯、ダサイ天狗のはりぼてが立っている、観光的温泉、
    もっと隠れ湯のようなところに行きたい、


    近くの林に入る、
    道なき道を森の中へ、
    赤い毒キノコがにょきにょき生えている、
    倒木に小まいキノコが生えているが、
    全部毒きのこだった、家族はシロシメジやクリタケなどを採る
    名人の祖母は眼鏡を忘れ、とれず、

    場所を変えて、
    キノコは落葉樹の森にしかほとんどないという、
    毒キノコでも生えていれば、そこにはキノコがあるということで、
    湿度や木の植生によっては、まったく生えていない場所もある

    苔の生えた切り株にちいさなクリタケが生えている、
    どうやらありそうな雰囲気、
    キノコをもとめて森をさまよう

    森の空気が変わる、湿気をおびたしっとりとした空気感、
    苔むした切り株の下に、クリタケの株があった、
    色が食べられそうな、
    森の宝のような明るい茶色、
    その辺りで、苔むした落葉樹の下に次々とクリタケの株を見つける

    ああ、なんて楽しいんだろう、
    このドキドキ、と発見の歓び、
    苔の緑の木陰に、株になって現れるクリタケの亜麻色のうつくしい姿、
    食べ物を手に入れる仕事がこんな宝探しみたいな遊びだなんて、
    縄文人は幸せだったんだな、

    先日、野焼きで土器を焼いたのも、ものすごく楽しかったけれど、
    昔の人の生活が辛かったなんてイメージは嘘っぱちだ、
    ものすごく楽しい生活を送っていたんだ
    だから縄文土器はあんなにうつくしいんだ、

    現代の都市生活者のほうがどれだけ苦しい生活をおくっているか、
    生命の奔流から切り離され、不自然に歪められたストレス社会、
    快適さ、と利便さのかわりに失った生の歓び、
    自然と精霊とともに、生命とともに生きた縄文人のほうがよっぽど
    楽しくうつくしく歓びに満ちていたという
    実感の地平に立つ、

    ちいさな頃、祖父、祖母につれられて、きのこ採りやたけのこ採り、山菜採りに
    行っていたけど、その森の空間性と山の幸を知っているのと知らないのでは、
    人生観に根本的な違いが生まれただろう、

    (タケノコ採りに行って、採りたての若くほそい柔らかなタケノコを
    その場で剥いて、持参したカセットコンロであぶって、
    味噌とマヨネーズをつけて食べたあの味は忘れることができない)

    ひさしぶりにきのこ採りに来て想う、

    温泉に入って、
    近くの高岡神社に寄って帰る、

    夜、クリタケのキノコ汁と、シロシメジのバター焼きとおばあちゃんの作った煮物、
    全部すごいうまい、
    キノコ汁は山の香りが芳醇にひろがる、採りたてでないとこの薫りは味わえない
    祖母の煮物はすごくうまい、すごく手がかかっているし、味が良くしみて、

    次の日、シロシメジの石焼きピザときのこ御飯、とにかくうまい

    こんな体験したことないという人は、
    長野の家に遊びに来てください、
    家古いけどひろいから泊れるので、
    キノコ採りに山へ行きましょう





    IMG_0001d.jpg


    IMG_0005c.jpg

    高岡神社、飯綱

     | HOME | 

    FC2Ad

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。