Nobuyuki Sugihara

砂場の山の隧道の指

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        2012-01-18 星空は古代テレビジョンtele-(離れた)vision(幻、光景)であった

    洞窟壁画の描かれている場所は、
    音の反響が良い場所で音楽演奏されていたのではないかということを
    実際洞窟壁画で演奏をしている音楽家の土取利行さんが言っている。
    http://www.youtube.com/watch?v=BKf1RKsoyIw

    絵画の起源には音楽がある
    ライブペイントという現在ある形式化してしまった表現には
    実はもの凄い可能性があると思っている。

    そして炎の問題。

    ラスコーに夏至の夕方に陽が射しこむというのは知らなかったが
    どの部分に射すのだろう。

    北海道に残る日本における古代洞窟壁画
    フゴッペ洞窟
    http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/anoutline/bunkazai/fugoppe.htm
    でも、ある時間帯に陽が射しこむという。

    描かれている羽根のあるヒトのような姿は
    女陰のような形でもあり、
    その岩の裂け目に光がさす。

    光と大地の交合のようだ。
    光と洞窟の交合はアイルランドのニューグレンジ遺跡でも見られる。

    そしてフゴッペ遺跡の洞窟壁画は線刻画である。
    ここでも縄文土器紋様と同じく三次元的表現をとっている。

    日本にはラスコーのような絵画としての洞窟壁画は無いのか残っていない。
    インドネシアのスラウェシ島リアンリアン洞窟壁画
    http://sugihara.blog27.fc2.com/blog-entry-265.html
    で、ネガティブハンド=手形を見たが、あれは喜びの表現であると感じた、
    獲物を手が捕えることの喜び、その呪術としての祈り

    インドネシアにも残っているので、湿度が高いために消えてしまったというわけではなく、
    日本においては縄文土器の特殊性と合わせて立体的な表現に対する志向があったと思われる。

    そしてフゴッペの岩は非常に脆く
    簡単に削れる

    そして描いた場所が土や生活品のゴミで埋もれていくことで
    埋まっていた場所だけが残った。本来は洞窟の中だけではなく
    洞窟の外の岩山をぐるっと覆うように描かれていたらしいが、風雨で消えてしまった。

    この描いたものを埋めるという行為にはとてもなにかひっかかるものがある。秘すること。

    何層にも渡って高さの違う場所に描かれているのでわざと埋めていたのではないかと
    学芸員の人が言っていた。見せることではなく描くこと自体に意味がある。
    その表現の呪術性と表現すること自体の持っている喜びの時間。
    それは表現における隠れた本質でもあるような気がする。

    アールブリュットの作家、障害を持っている作家には
    自分でつくってしまったものにほとんど興味を失ってしまう者がいるという。
    それは常に創造の瞬間のみが生きた時間であり、出来てしまったものは、
    もう自分が楽しむことができなくなった死んだ時間と場所として、興味の視野から剥落する。

    洞窟壁画においても、絵全体を今のようにライトで照らして見る為に描いたのではなく、
    おそらく獣脂のロウソクで手元を照らしながら、描くという行為自体に意味があった。

    なので絵は時代を経て同じ場所に重ね描かれていたりする。
    そこには見るという社会的行為ではなく、
    描くこと自体に含まれる純粋な表現の豊穣な意味性の束が宿っているような気がする。

    古代まだ人が少なく夜が恐ろしいほど暗かった時代の星空、
    星座のもっているビジョン、映像の伝えてくるメッセージ。それは炎の持っている映像性と合わせて、

    星空というのは古代におけるテレビジョン
    =ギリシア語に由来するtele-(離れた)+ ラテン語のvisioに由来するvision(幻、光景)であった

    そして洞窟という光さす暗がりで浮かび上がるビジョンもまた古代テレビジョンであったかもしれない。

    これは竪穴式住居の子宮空間に眠り
    仮死としての眠りと再生を行う空間の光が

    誕生の瞬間、子宮を出る赤子の感じた
    光さす暗がりのビジョンとも繋がる。


    これが暗闇で見る映画の起源、ひいては炉を囲み、
    囲炉裏を囲んで炎という映像を眺めつづけた私たちが、
    家族団欒の中心に現在テレビを置き、
    そしてPCという光さすボックスを眺めつづける、
    心理的要因の起源にもなっているかもしれない。

    竪穴式住居の中心に火焔型土器を吊るし炎と共に眺めるという映像性の問題。
    それは香炉型土器に炎をともした時、
    竪穴式住居内に現れた炎に揺らめく影のカミの生きたビジョンとしての映像とも繋がる。

    この漂白的な蛍光灯や白熱灯という均質な光の中で制作することと、
    炎という揺らぐ明かりの中で制作することには、重要な問題があるかもしれない。

    明かり自体が、木や獣脂と言う生命の死体を燃やすことで生まれる
    生命の揺らぎとういう光の中で描かれる。

    炎という水のような生命のような魂のような揺らぎを眺めること。
    それが呼び出すビジョン。その明かりの揺らぎが生み出すビジョン。

    絵画という光の表現が生まれる場所が動いている火、
    ヒカリに呼びだされるというのは洞窟壁画の起源、星もまた瞬いている。

    今そのように薪ストーブの炎を前にして石に絵を描いていたけど、
    そういうことってあるかもしれない。

    星って穴だって見方もある夕筒、ツツ、穴
    描くことの点もまた星、穴、削るってこともあるかもしれない。

    もちろんアトリエの起源も洞窟であり、竪穴式住居であり、
    子宮である、誕生の起源は常に女性の子宮なのだ。
    発生の起源にも穴や窪みがあるかもしれない












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        2008-12-01 「母型」について

    内藤礼さんの「母型」について再び想い巡らしてみると、
    その茶室ということ、茶室というのはにじり口という
    入り口が狭く、武士は刀を置いてくぐって中に入る
    意味としては裸になる子供に戻るようなことだと思う
    この所作は古代の石窟古墳の入り口が狭く
    くぐって入ると中が広いという
    子宮を想わせる構造を持っている
    そして横笛庵は平らな天井がなく
    茅葺き屋根の傾斜がそのまま天井になって
    そこから糸が垂れている
    このイメージは産屋を思いおこさせる
    出産の際籠る茅葺きの小屋だ
    同時に暗闇に浮かぶそれは
    臍の緒のようなイメージもあるかもしれない
    そのことと、電熱器が大小二つ置かれていること
    熱と風という2種類の力によって呼び起こされる動き
    これは生命誕生の謎に接触するような
    歴史的な作品という気がする

    そして開かれた環境に見る人が存在することによって
    反応し、無限の変化を生み、動きを生み出すモノ
    これはいままでになかったモノの在り方を更新した
    美術の歴史ではなく、人の歴史を更新するような作品なのではないか
    モノというのは本来こういうイノチを宿したものだったというのことを復権する、
    モノにイノチをよびおこす
    これは歴史的な事件であり
    世界を変え得る作品であると思う
    だれかがこれを正確に発信し、伝え、
    残すことが必要と思います







        2007-02-13 祖霊と死と女神

    国立博物館、常設展
    芸大生は今年から無料になったが、120円だった学生料金が400円に
    これは高すぎる値上げだ
    しかしまあ無料だから、よく行く

    西洋美術はヨーロッパにくらべれば
    日本はたいしたもの持ってないから、
    やはりここから、なにかが生まれるのだろう

    朝ちょっとだけ寄っていく
    今はハート型土偶、
    「太公望・文王図」伝狩野元信筆のざらつくような世界のさわり



    縄文火焔型土器が見たかった

    火焔型土器は、生のうねりに漲っている
    昔見た時に、今のぼくの生きている世界からはつくれないものだと感じていた記憶、
    削る装飾ではなく、生の盛りあがりとえぐれ、
    その内臓的なうねりは当然と生まれている
    そのほうがあたりまえなのだ
    生命の外在化

    縄文火焔型土器と弥生の埴輪における断絶

    これを眺めていると、ふと埴輪というのは、死であると思った
    古墳のまわりに置かれていたという埴輪が死に関係するのは当然だが、

    はたして、縄文時代に死という概念があったのだろうか、
    すべてに神が宿っていた時代に死という概念が意味をなすだろうか、
    生命も無生物もすべてがつながって響きあっているなかで、死という途切れ、終りは
    意味を成さない、
    生と死はきりはなして使う言葉ではなかった、

    縄文時代の住居には入口に死者が埋葬されているものがあって、
    死を遠ざけはしなかった

    忌むべき死というのは、大陸からやってきた渡来人の弥生人によってもたらされた、
    稲作による備蓄と貧富と権力、人間的なるものによって生まれた
    卑しい目的の為による殺人によってこそ、忌むべき死という言葉が生まれたのではないか、
    出雲大社の大事主の祟り、

    そう、埴輪からは祖霊を祀る、死の世界の空っぽさを感じるが、
    火焔型土器は、生のリズムに満ちている、

    釣った魚を手で掴んだ時の、生の漲りのような、
    生を奪って、死を生へと換える、神を殺して、神を食べて生きる世界

    その世界に卑しい目的の殺人など存在しなかったのではないか、
    そしてカニバリズムの痕跡が見られるという縄文、
    すべてが神の世界においては死者を食べるという意味もまったく変わってくる、

    我々の身体が世界の一部を借りて、構成され流転しているのだから
    それが有機体という荒川修作の考えでもあり、

    死と言う概念こそが、諸悪の根源であり、
    人は死ぬのではなく、消えると言うのではないか、

    土に還ることは悲しいことでもなんでもない、
    そこから生まれる悲劇的物語は、まったく必要無いものではないか、
    死はほんとうは美しい、

    メメントモリという言葉は重要な言葉だと思っていたが、
    それは生命を奪って生きるという生から、遠ざかり、
    死さえも、忘れた人々には、有効な言葉だが、
    本当は死を生から切り離して使うことは間違いなのではないか

    荒川修作はそこで、永遠に生きたいという欲にいってしまったところが問題で、
    それが閉じた空間をつくる原因になっているのではないか、
    生と死は一つであり、死に抗う必要などない


    死とは、終りであり、切れることだ、
    ほんとうはすべてがつながっていて響きあっているのに、
    終りをつくりだしてしまった、
    その死という分断によって、今の分業化された世界が生まれてしまった
    神(生の響き)を(概念のなかで)殺した世界

    つまり今のアスファルトに覆われた地面や都市など、
    死と言う概念によってつくられた世界なのではないか、
    ほんとうは、すべてが響きあっている世界なのに、
    それが分断しているように見せられている世界、
    どんなつまらない工業製品にも分子レベルで見れば、
    世界と響きあっている、見せかけとして、
    世界は
    神(自然のリズム)から切り離されてしまったが、
    本当はつながっているのではないか、
    しかしこの都市において、すべてに神が宿っていると感じることは、
    ぼくにはできない、
    でもほんとうはそうなのだろう、
    沖縄の離島の御嶽や原生林のなかでは感じることができたから

    すべてに神が宿る世界においては、どんな生活の道具であっても、
    そこには命のリズムが流れなければならない、
    縄文土器がまさにそうだし、アイヌの服も、

    現代も、車もドアもタンスもすべて生命の外在化によって
    生のリズムを宿したものにならなければならないだろう、

    そういう世界を皆さん一緒につくりませんか?















    埴輪は死であると言ったが、それ自体にも魅力がある
    それ以降のもっとつまらない中国式の像なんかよりはまったくおもしろい

    ただ死に対する儀式と
    生に対する儀式の違いはもの凄く大きい
    土偶の女神が、妊婦である生の賛歌、


    だいたい、巫女さんの処女性や初潮の穢れに対するイメージは、
    縄文時代の女性上位から、
    男性上位に移り変わる時に、
    巫女から神主に移行した時に

    女性の力を恐れて
    神秘性を処女性に閉じこめたのではないだろうか、

    本当の神秘は生命を産み出す妊婦にこそ宿る

    禁欲ではなく開放された
    包容する女神こそが美しい





        2006-07-09 再び三鷹天命反転住宅

    早大法学部教養演習/塚原ゼミ(表象文化研究)ARAKAWA+GINS*三鷹天命反転住宅公開授業
    2006年7月1日(土)午後2~4時
    テーマ「言葉と音:意味から無意味へ―ダダ、宮沢賢治、寺山修司…」
    担当教員/塚原史(法学部教授)
    ゲストスピーカー/高橋世織(文芸評論家、元早稲田大学政経学部教授)

    □参加者はツァラ「ダダの作詩法」(1920)をモデルに、自作の「詩」を球形の部屋で朗読すること。声以外の音源使用OK。
    □ゲストスピーカーによる「風の又三郎」の絶唱、担当教員による寺山作品絶叫つき。


    連れが行くと言うのでこれに参加、二度見てもやっぱり印象は変わらない、
    気に食わない、「建築する身体」も読んでいるが、
    人は死なない、死に抗う建築というのは、
    ものすごく未来に向いた現在の在り方で、
    だから荒川の建築は現在に対する緊張感がないのではないか、

    死を避けるということにそんなにこだわることが
    ぼくにはなくって、それはそんなに避けるべきことなのか、

    死と言う自然に立ち向かうというのはなんとも西欧的発想で、
    生と死は一つとして自然に受け入れているのは
    全然敗北者でもペシミズムでもないと思う

    よっぽどメカスさんのほうが僕にはすごいと思われる、
    あるがままというか


    詩の朗読があるというので、行ったのに、人が多くて、緊張感のないざわざわとした
    おしゃべりになってしまっていたので、
    連れに言って、詩の朗読を始める、
    僕は文章朗読するのきらいだから、
    その場で始まって
    小山の床をぐるぐる歩き なが ら、なんか言葉を発話していた、
    何しゃべってたのか、憶えてないけど、
    動きと言葉で、場をつくったのは初めての経験ではないか

    床は好きだけど、荒川がつくりたかった床はほんとは土の土間で
    もっと大きなうねりの山ができるはずだったのに、
    工務店のひとが、荒川が試しに作ってみたのより、かなり小さな小山を作ってしまって、
    これは違うなと、荒川は言ったのに、工務店の人がやってくれたのも、これはこれでいいと、納得したらしい、
    そういう妥協が、あの建築の緊張感を失わせている

    つれは荒川好きで、
    人は死なないと、意見が一致しているので、
    あれ買うらしい、
    8000万円くらいするけど、8万円くらいしかだせないから
    1000人くらいで買って共同で使うと言っている、
    荒川さんもそんなこと言ってたから
    興味があるひとは僕に連絡ください、
    インターネットで募集したくないと言ってたけど、
    僕経由ならいいかなと



    http://www.architectural-body.com/ja/

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